流れ出しました。
 四辺《あたり》は滔々《とうとう》たる濁流であります。高い所には高張《たかはり》や炬火《たいまつ》が星のように散って、人の怒号が耳を貫きます。
「助けて!」
という悲鳴が起ると、
「おーい」
と答える声はあるけれど、どこで助けを呼んでどこで答えるのだか更にわかりません。
 避難すべき人は宵のうちから避難し尽したはずであるのに、なお逃げおくれた者があると見えて、彼処《かしこ》の屋根の上や此処《ここ》の木の枝で、悲鳴の声が連続して起ります。多くの家や小屋が、みるみる動き出して徐《おもむ》ろに流れて行きます。
 そのなかの一つの屋根の羽目《はめ》がこのとき中から押破られて、そこに姿を現わしたのは、いったん水に呑まれた机竜之助でありました。破風《はふ》を押破った竜之助は、屋根の上へのたり出でたもののようです。それでも刀と脇差だけは、下げ緒で帯へしかと結んでいたものらしくあります。屋根へ出ると菖蒲《あやめ》の生えていた棟へとりつきました。そこでホッと息をついて、自分の面《かお》を撫でてみました。頬のあたりから血が流れている、何かのはずみに怪我をしたものらしい。手足も身体中もしき
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