まだ早かろうのに一二匹の蚊が出て、ぶーんと耳許で唸《うな》りました。それを掌で発止《はっし》とハタいて打ち落し、うつらうつらと枕に親しみかけました。
けれども、外はその通りに騒がしいのに、今や全村の犬も鶏も声を揚げてなきだしました。人畜ともに寝ることのできない晩に、竜之助とても安々と眠るわけにはゆきません。ただ横になったというだけで、外の騒ぎを聞き流していようというのであります。
この東山梨というところは、言わば全体が笛吹川の谷であることは竜之助もよく知っていました。三面から翻倒《ほんとう》して来る水が、この谷に溢れ返る時の怖ろしさも、相当に峡東《こうとう》の地理の心得のある竜之助にとっては、理解ができないでもありません。
しかし、この時分になっては竜之助は、天災の来ることを怖れるよりは寧《むし》ろ、山が大きな口をあいて裂け、我も、人も、家も、獣も、ことごとくブン流されてみたら面白いだろうという空想に駆られて、かえって外の騒ぎを痛快に思うような心持でいました。外の騒ぎもようやく耳に慣れた時分に、竜之助は眠りに落ちました。
「もし、お客様」
竜之助が眠った時分になって、誰やら家の
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