った時の返事は、なまめかしい女の声であったということが、この酒屋の者の話の種でありました。それから毎日一升ずつの酒が、この屋敷へ運ばれたけれど、御用聞の小僧は、主人らしい人も、奥様らしい人も、また家来衆、雇人たちのような人の面《かお》をも、まだ見かけたことがありません。
「毎度有難うございます……」
と言って酒をそこへ置くと、
「どうも御苦労さま、それから明日はお醤油《したじ》に波の花を……」
というような注文が台所のなかから聞えて、それは女ではあるけれども、さっぱり面を見せないのが変だといえば変であります。売掛けもどうかと思って、その月の半端《はんぱ》の分を纏《まと》めて書付にして出すと、その翌日は綺麗《きれい》に払ってくれました。支払の信用と共に化物の疑念は取れて、それより以上にこの屋敷を怪しがるものはありません。
 この屋敷の一間で庭をながめながら、晩酌を試みているのは化物でもなんでもない、正真《ほんもの》の神尾主膳であります。甲府を消えてなくなった神尾主膳が、ここへ来て浴衣《ゆかた》がけで酒を飲んでいるところを見れば、かくべつ病気であったとも見えないし、また穢多に浚《さら》われ
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