してしまいました。
 遠藤老人はそのままにしておけばよかったのだけれども、実は宵《よい》からの酒気がまだ去らないのに、この老人は若い時から槍が多少の得意でありました。だから長押《なげし》にかけてあった槍を取って、酒気に駆られて、ひとりで表へ飛び出したのは年寄に似気《にげ》なきことでした。
「待て、曲者」
 その槍を構えて、いま辻斬の狼藉者《ろうぜきもの》のふらふらと歩んで行って、ふと隠れたと覚《おぼ》しい榛の木馬場の前まで追いかけました。
 寝静まっていた老人の家の者は誰もそれを知りません。また近所の人とても、更にそれと知って出合う様子も見えないほど夜は更けていました。もしまたそれと知った者があっても、斯様《かよう》な際には、心ならずも空寝入りをして聞き逃すのが例でありました。遠藤老人とても酒の気さえなければ、そうしていたに違いないけれども、酒は、怜悧《れいり》を以って聞えたこの老人をもかほどな無謀なものにしてしまいました。
 辻斬の狼藉者は、たしかに老人の声に驚いて榛の木馬場を後ろへ逃げたようです。しかもその逃げぶりが蹌々踉々《そうそうろうろう》として頼りないこと、巣立ちの鳥のような
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