一位稲荷大明神と書いてあって、そのお札で撫でると、お医者さんでも癒《なお》らない病気が癒るとされてあるものです。ですから、気の変になった人や、狐につかれた人のために、能勢様へお札を貰いに行く者が黒山のようです。
 そこでお松は能勢様へ行って、お君のために稲荷様のお札をいただいて、帰りに和泉橋のところへ出ると、笠をかぶって袈裟法衣《けさころも》に草鞋穿《わらじば》きの坊さんが杖をついて、さっさと歩んで来る。それに引添うて、一匹の真黒い逞《たくま》しい犬が威勢よく走って来るのを見かけました。
「まあ、ムクだね、珍らしい、お前、今までどこにいたの」
 甲州で別れて以来のムクは、お松の傍へ来て、身体をこすりつけて、尾を振って、勇み喜ぶのであります。
「お前さん、この犬を知っておいでか、オホホホ」
 笠の中から、お松を見て笑っているのは慢心和尚です。
「御出家さん、あなたがこの犬をお連れ下さいましたのでございますか」
「はいはい、わしが連れて参りました」
「よくお連れ下さいました、この犬の主人のおりますところを、わたしがよく存じておりますから御案内を致しましょう」
「それはそれは。しかし、わしは
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