は金助の疑心暗鬼ではなく、たしかに庭を歩いて、雨戸をあけて、廊下を歩いて、金助がいま蒲団を被っている部屋の障子の前に立った者があるに相違ないのです。
「お角さん、もうお帰りなさったの」
 障子をあけて、蚊帳の外に立ってこう言ったのは女の声であります。金助は黙っていました、蒲団を頭から被ってガタガタと慄えていました。しかし、燈火《あかり》はカンカンとかがやいていることであるし、喫《の》みかけた煙管《きせる》はそこに抛《ほう》り出してあるのであるし、その煙草の吸殻の煙ものんのんと立ちのぼっているのであるから、外から見ても、内から見ても、人がいないとは言い抜けられない有様であります。
「お角さんはどうしました」
 蚊帳の外の女は再びこんなことを言いました。金助はそれでも返事をしなかったけれど、女は容易に立去ろうともしないで、
「そこに寝《やす》んでいるのはどなた」
「へえへえ、うーむ」
 金助もついに堪《こら》え兼ねて、慄え声で、いま目が覚めたような作り声をして、
「どなた」
 同じようなことを言い、蒲団の隙間からそっと目だけ出して蚊帳の外を見ました。立っているのは寝衣姿《ねまきすがた》の女
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