まらねえ」
いつのまにか蚊に手の甲を、したたかに食われていました。その手を掻いてから、ピシリと顔を打って蚊をハタキ落し、
「世の中に蚊ほどうるさきものはなし、文武と言いて夜も眠られず、さすがに寝惚《ねぼけ》先生、うまいところを言ったな。どこかにまだ蚊帳《かや》があるだろう」
金助は立って戸棚をあけると、そこに蒲団《ふとん》もあれば、立派な蚊帳も入れてありました。その蒲団を展《の》べて蚊帳をつり、その中へ煙草盆を引き寄せて、ふんぞり返った金助は、
「だが、陰々と湿っぽい家だな、燈心をもう少し掻き立てて明るくしてやろう。殿様は、よくお休みのようだ、お命に仔細はあるまい、なるほど、すやすやと寝息が聞えるから、まず安心。おや、何か音がしたぜ、風が出たんじゃあるめえな」
耳をすますと、下駄を穿《は》いて歩んで来るらしい人の足音。
「冗談じゃねえ、人の足音だぜ、しかも暢気《のんき》に庭の中を、カラコロと引摺って歩いて来るのは只者じゃあねえぜ。あのお角とやらいう女の言葉では、誰もいねえ留守の屋敷だと言ったが、誰かいるじゃねえか。こいつは堪らねえ、化物屋敷の化物がおいでなすったんだぜ。人が悪いね
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