く別の人、すなわち、兵馬が吉原の茶屋からこれまで担いで来た神尾主膳が、地上へ差置かれたところで息を吹き返したために、その唸り声に違いないから、それで兵馬は、ハタと当惑しました。
「うーむ、水を持て、水を」
まさしく神尾主膳の声であります。
「おや、あの声は……」
女はその声を聞咎《ききとが》めないわけにはゆきませんでした。
「あれは怪しいものではない、拙者の連れの者」
兵馬はこう言いわけをしました。
「お連れの方でございましたか」
女もそれだけは安心していると、
「ああ苦しい、水を持て、水を、女中共、誰もおらぬか」
闇の中で、つづけてこう言い出したから、
「おや、あのお声は?」
兵馬は女をさしおいて、
「お静かに、静かにさっしゃい」
地上へ捨て置いた主膳の傍へ寄ると、
「早く水を持てと申すに。女共どこへ行った、拙者はもう帰るぞ」
「ここは吉原ではござらぬ、静かにさっしゃい」
兵馬は主膳を抱き上げて耳に口をつけて、囁《ささや》きました。
「吉原でない? 吉原でなければどこだ、暗いところだな、化物屋敷か、染井の化物屋敷か、ここは」
主膳は、人心地《ひとごこち》がなく物を言
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