く別の人、すなわち、兵馬が吉原の茶屋からこれまで担いで来た神尾主膳が、地上へ差置かれたところで息を吹き返したために、その唸り声に違いないから、それで兵馬は、ハタと当惑しました。
「うーむ、水を持て、水を」
 まさしく神尾主膳の声であります。
「おや、あの声は……」
 女はその声を聞咎《ききとが》めないわけにはゆきませんでした。
「あれは怪しいものではない、拙者の連れの者」
 兵馬はこう言いわけをしました。
「お連れの方でございましたか」
 女もそれだけは安心していると、
「ああ苦しい、水を持て、水を、女中共、誰もおらぬか」
 闇の中で、つづけてこう言い出したから、
「おや、あのお声は?」
 兵馬は女をさしおいて、
「お静かに、静かにさっしゃい」
 地上へ捨て置いた主膳の傍へ寄ると、
「早く水を持てと申すに。女共どこへ行った、拙者はもう帰るぞ」
「ここは吉原ではござらぬ、静かにさっしゃい」
 兵馬は主膳を抱き上げて耳に口をつけて、囁《ささや》きました。
「吉原でない? 吉原でなければどこだ、暗いところだな、化物屋敷か、染井の化物屋敷か、ここは」
 主膳は、人心地《ひとごこち》がなく物を言
前へ 次へ
全200ページ中133ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング