していた梯子も見えなくなったし、道庵も倒れてはいないし、あんぽつ[#「あんぽつ」に傍点]もどこへか取片づけられていました。
 万字楼の前が、人の出入りができるようになった時分に、例のあんぽつ[#「あんぽつ」に傍点]がまた家の中から舁《か》き出されたが、それを担ぎ出したのは、前の酔っぱらいの駕籠舁とは違った屈強な駕籠舁で、その駕籠わきに附いて行くのが宇治山田の米友で、どういうつもりか、例の二間梯子をそのままにして手放すことをしない。
 廓内を出たこのあんぽつ[#「あんぽつ」に傍点]は、下谷の長者町の方角を指して行くものらしいから、してみればこの駕籠の中は当然、主人の道庵先生であるべきはずなのに、その当人の道庵先生は、やや正気に立返って、万字楼に踏みとどまっているのであります。
 万字楼に踏み留まった道庵は、相変らずそこで飲んでいるかと思えば、決してそんな呑気な沙汰《さた》ではありません。担ぎ込まれた敵味方の療治とその差図で、てんてこ舞をしているのであります。万字楼そのものが野戦病院みたようで、道庵先生は軍医正《ぐんいせい》といったような格でありました。ここに至ると道庵先生の舞台であります
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