の男はここで自殺したのかと思いました。
「これ、気を確かに持て」
 近寄ってその背に手をかけた時に、それは決して自殺したものでないことを知りました。そこに迸《ほとばし》っている夥しい血汐は、その鼻口《はなくち》から吐いたものであって、刃を己《おの》れの身に当てて切って出したものでないことは直ぐにわかりました。
「うむ、神尾殿」
「病気か、苦しいか」
 竜之助の横面《よこがお》を見ると、死人のように蒼ざめていました。
「水を飲ましてくれ」
「うむ、水か、そら、水を飲め、しっかりと気を持たなくてはいかん」
「いや、もう大丈夫」
 竜之助は落着いたらしいが、神尾は焦立《いらだ》って、
「これ、貴様たちは何をしているのだ、早く医者を呼ばんか、医者を呼べ」
「医者はよろしい、医者を呼ぶには及ばない」
と苦しい中から竜之助は、医者を呼ぶことを断わります。
「しかし……」
「医者は要らぬ、ただ、静かなところで暫く休ませてもらいたい、誰も来ないところへ入れて置いてくれさえすれば、やがて癒《なお》る」
 竜之助の望む通り静かな一室へうつされ、医者も固く断わるから、強《し》いて呼ぶこともしませんでした。花
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