礼を加えたものがあって、それが逃げ出したと聞くと、纏《まと》まって米友をめあてに追蒐《おいか》けて来るらしいのであります。それがために竹屋の渡しの方へ逃げようと思っていた米友は、伝法院の前に逃げ込んでその塀に突き当りました。弥次馬はワイワイ言って、あとから追いかけて来るもののようです。
 そこで米友は、突き当った伝法院の塀へ、肩に引っかけていた梯子をかけてスルスルと上りました。
 米友が伝法院の塀へ上り終った時分に、弥次馬がその塀の下へ押しかけて来てワイワイと言って噪《さわ》ぎます。
 塀へ上ると米友は、その梯子を上からグッと引き上げて、また肩にかけて塀の上をトットと駈け出しました。
「それ、そっちへ行った、こっちへ来た」
 弥次馬は誰に頼まれて、何のために米友を追いかけて来たのだかわかりません。
 米友は追いかける弥次馬を尻目にかけて、塀の上をトットと渡って歩いたが、やがて塀から蛇骨長屋《じゃこつながや》の屋根の上へ飛びうつりました。長屋の屋根の下の者は驚いて外へ飛び出して、弥次馬と一緒になって騒ぐ時分には米友は、そこから飛び下りて淡島様《あわしまさま》の方へ一散に走って行きます。
 そこで弥次馬に弥次馬が重なってくると、米友を追いかける事の理由が、いよいよわからなくなってしまいました。ただ追蒐《おいか》けるがために追蒐ける人間が、雲のように米友のあとを慕って来るのであります。
「何でございます」
「泥棒でございましょうよ」
「何の泥棒でございます」
「梯子を持っているから、半鐘の泥棒でございましょうよ」
というのはまだ出来のよい方でありました。この非常の場合においても、梯子を抱えて走るというのは、米友が商売道具を大切にする心がけと、それから証拠を残しては後日のために悪いという用心とのほかに、これを持っていることが逃げるのにかえって都合がよいからであります。
 追われて行詰った時は、その行詰った塀なり軒なりへそれを倒しかけてスルスルと上って行きます。弥次馬が追いついた時分には上からそれを引き上げて、裏へ飛んで下りたり横へ走ったりします。こうして米友は、淡島様から浅草寺《せんそうじ》の奥山へ逃げ込み、奥山から裏の田圃《たんぼ》へ抜けました。田圃へ来て見ると、もう追いかける人もあとが絶えたようであります。
 どのみち、本所の鐘撞堂へ帰るべき身であるけれども、遠廻りをして帰らねばならぬと思って、四方《あたり》を見廻して突立っていました。米友はまだこんなところへ来たことはないから、そこで暫らく方角を考えて立っていました。
 田圃の真中に立って米友は、ここで梯子の必要がなくなってみると、どう処分するか。それは心配するほどのものはなく、無雑作《むぞうさ》に梯子の一端に手をかけると、それを二つに折ってしまいました。それは本来折れるように出来ている梯子で、二つに折ったのをまた四つに畳みました。なんでもないことで、こうして米友の梯子は折畳みができるようになっている。四つに畳んでしまった後に、桁《けた》は桁、桟《さん》は桟で取り外して、それを一まとめにして、懐中から麻の袋を取り出して、それで包んで背中へ無雑作に投げかけました。物事は他《はた》で見るほど心配になるものではなく、どうするかと見ていた梯子の問題は、米友の一存で手もなく片づけてしまいました。
 その畳梯子を背中に背負った米友は、手拭を出して頬冠《ほおかぶ》りをして、尻を引っからげてスタスタと田圃道を歩き出しました。
 ここで地の理を見ると、右手は畑、左は田圃になっていました。右の方は畑を越して武家屋敷から町家につづいているものらしく、左の方を見ると、そこに一廓《いっかく》の人家があって、あたりの淋しいのにそこばかりは、昼のようにかがやいているのを認めます。
「おい、駕籠屋《かごや》」
 後ろから呼びかけたものがあります。
「駕籠屋?」
 米友は振返ると、二三人づれの侍らしくあります。
「やあ、駕籠屋ではなかったか」
 米友の姿を見て行き過ぎてしまいました。米友は、自分が駕籠屋に間違えられたと思って怪訝《けげん》な面《かお》をして、それをやり過ごしてしまうと、
「もし、旦那、吉原までお伴《とも》を致しやしょう、大門《おおもん》まで御奮発なせえまし、戻りでございやすよ」
 この声は駕籠屋であります。前には駕籠屋と間違えられて、今度は駕籠屋から呼び留められました。
「おやおや、子供か、お客様じゃあねえんだ」
 駕籠屋はこう言って、米友を通り抜いてしまいました。
 ここをいずれとも知らず、わざとウロウロ歩いていた米友。今の駕籠屋の間違って勧めた言葉によって、
「ああ、そうか、あれは吉原だな」
と感づきました。吉原の名は、さすがに米友も国にいる時分から聞いていないことはない。幸い、道草を食って行
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