くには、あの吉原を一見物して来るに越したことはないと、ここで米友は、その明りのする一廓をめあてにして進んで行きました。

         十

 宇津木兵馬は万字楼の東雲《しののめ》の部屋に、東雲を相手にして碁を打っていました。
 兵馬のここへ来た目的は、この花魁《おいらん》を相手に碁を打つことではありません、万事は金助の取計らいであります。
 神尾主膳は、同じ家の唐歌《からうた》という遊女の部屋に納まって、太夫《たゆう》と禿《かむろ》とを侍《はんべ》らせて、朱《あか》い羅宇《らう》の長い煙管《きせる》で煙草をふかしていると、慌《あわただ》しく、
「白妙《しろたえ》さんのお客様が、御急病でいらっしゃいます」
「ナニ、藤原が急病?」
 神尾主膳は、その急報をきいて煙管を投げ捨てて立ち上りました。新造《しんぞ》を先に立てて、白妙の部屋へ駈けつけて、
「藤原、どうした」
 神尾は人をかきのけて中へ入って見ると、夜具の上に俯伏《うつぶ》しに倒れているのは机竜之助であります。そうして蒲団《ふとん》の敷布の上には夥《おびただ》しい血汐《ちしお》のあとがありました。
 神尾はそれを見ると、ああ、この男はここで自殺したのかと思いました。
「これ、気を確かに持て」
 近寄ってその背に手をかけた時に、それは決して自殺したものでないことを知りました。そこに迸《ほとばし》っている夥しい血汐は、その鼻口《はなくち》から吐いたものであって、刃を己《おの》れの身に当てて切って出したものでないことは直ぐにわかりました。
「うむ、神尾殿」
「病気か、苦しいか」
 竜之助の横面《よこがお》を見ると、死人のように蒼ざめていました。
「水を飲ましてくれ」
「うむ、水か、そら、水を飲め、しっかりと気を持たなくてはいかん」
「いや、もう大丈夫」
 竜之助は落着いたらしいが、神尾は焦立《いらだ》って、
「これ、貴様たちは何をしているのだ、早く医者を呼ばんか、医者を呼べ」
「医者はよろしい、医者を呼ぶには及ばない」
と苦しい中から竜之助は、医者を呼ぶことを断わります。
「しかし……」
「医者は要らぬ、ただ、静かなところで暫く休ませてもらいたい、誰も来ないところへ入れて置いてくれさえすれば、やがて癒《なお》る」
 竜之助の望む通り静かな一室へうつされ、医者も固く断わるから、強《し》いて呼ぶこともしませんでした。花魁《おいらん》も禿《かむろ》も誰も来ない中に、ゆっくりと休みたいということであったから、これもその意に任せました。
 部屋の者を差図して、竜之助を介抱させた神尾主膳は、自分の部屋へ引返したが、浮かぬ面色であります。親の敵《かたき》呼ばわりをする者が来ていると言って、自分に不快の思いをさせた金助の告げ口といい、この場の急報といい、なんとなく不安の思いが満ちて、部屋へ帰っても四方《あたり》が白《しら》けてなりません。
 やむなく酒をあおりはじめました。多く酒を飲めば酒乱に落ちることを知っておりながら、なんとなしに酒を飲みたくなりました。
「白妙《しろたえ》も一座へ招いて、芸者を呼んで、もう一騒ぎしよう、そして今夜はほどよく切り上げて拙者は帰る」
 酒が進むと主膳は、陽気に一騒ぎしたくなりました。
 兵馬と東雲《しののめ》の第二局目の碁は、危ないところで兵馬が五目の勝ちとなりました。その時分に、
「白妙さんの部屋で心中」
という噂がここまで伝わって来る。
「心中? まあいやな」
と言って東雲は、眉をひそめました。
「心中ではございません、白妙さんのお客様が御急病なのでございます」
 そこへ新造が報告に来てくれたから、東雲の胸も鎮まりました。
「今度は勝負でございますね、もうお一手合《ひとてあわ》せ、お願い致しましょう」
 東雲は惜しいところで負けたのが、思いきれないようであります。
 兵馬は、それどころではない。碁のお相手は、もう御免を蒙りたいのであります。けれども東雲はいよいよ熱くなって、
「どうぞ、もう一石《いっせき》」
 東雲は、兵馬の心持も知らないで戦いを挑《いど》むから、兵馬も詮方《せんかた》なしに、
「今度は負ける」
 やむを得ず、碁笥《ごけ》の蓋を取りました。
 この時に、万字楼の表通りが遽《にわか》に噪《さわ》がしい人声であります。第三局の碁を打ちはじめようとした兵馬も、東雲も、新造も、その噪がしいので驚きました。新造が立って表の障子を細目にあけて、楼上から見下ろしてハタと締め切り、
「茶袋が参りましたよ、茶袋が」
「おや、歩兵さんがおいでになったの、まあ悪い時に」
と言って、東雲の美しい眉根に再び雲がかかりました。
「茶袋とは何だ」
 兵馬が新造にたずねると、
「歩兵さんのことでございます」
「ああ、このごろ公儀で募った歩兵のことか、あの仲間には乱暴者が
前へ 次へ
全50ページ中26ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング