ていたが何とも言いません。遠慮して、芸を中止して、このお通りになるものをお通し申して、それから再び芸を始めるのかと思うと、そうでもありません。
「さあ、これから梯子抜けというのをやって見せる……」
「控えろ!」
大名のお通りには頓着なく、米友が梯子抜けの芸当にとりかかろうとする時に、お供先の侍が、癇癪玉《かんしゃくだま》を破裂させたような声で、見物は、はっと胆《きも》をつぶしました。
大名のお供先は、米友を中心として、見物の一かたまりが思うように崩れないのが、よほど癪に触ったと見え、物をも言わずにそれを蹴散らしたから、見物のあわて方は非常なものでありました。
かわいそうに、そのあたりに夜店を出していたしるこ[#「しるこ」に傍点]屋は、このあおりを食って、煮立てていた汁と、焼きかけていた餅を載せた屋台を、ひっくり返されてしまいます。沸騰《たぎ》っているしるこ[#「しるこ」に傍点]の鍋は宙に飛んで、それが煙花《はなび》の落ちて来たように、亭主の頭から混乱した見物の頭上に落ちて来ましたから、それを被《かぶ》ったものは大火傷《おおやけど》をして、
「アッ」
と言いながら頭や顔を押えて、苦しがって転がり廻りました。
前の方の連中は、喧嘩でも起ったのか知らと振返って見ると、
「あッ、お通りだ」
喧嘩ならば頼まれないでも、弥次に飛び出して拳を振り廻す連中が、大名の行列と気がついて、悄気返《しょげかえ》って逃げ出しました。
梯子に跨《またが》ってさいぜんから、この様子を見ていた米友は、キリキリと歯を噛み鳴らして、丸い眼を据えて、狼藉《ろうぜき》を働く侍――いくら人集《ひとだか》りがあるといったからとて、遠慮すればその外を通れない道ではないのに、こうして人間を蹴散らし、踏倒して通る大名行列というやつの我儘《わがまま》と、その我儘を助けるお供の侍どもの狼藉を見ると、口惜《くや》しさに五体が慄えました。
いったい、このごろの米友は、殿様とか大名とかいうものを、心の底から憎み出しているのであります。殿様とあがめられ、大名と立てられる奴等、その先祖が、どれだけ国のために尽し、人のために働いたか知らないが、今の多くの殿様というやつは薄馬鹿である。その薄馬鹿を守り立てて、そのお扶持《ふち》をいただいて、士農工商の上にいると自慢する武士という奴等が、癪にさわっているのであります。米友の眼には、一人の殿様とやらが歩くのに、二百人も三百人も大の男がそのまわりにくっついて歩かねばならぬことの理由《わけ》がわからないのであります。その上に、こうしてせっかく市民が面白く見物をしたり、遊楽をしたりしている最中を、大手を振って押通り、押しが利かないと、この通り乱暴狼藉を働いて突破する、その我儘が通ることの理由もわからないのであります。それのみならず、この我儘と乱暴狼藉とを加えられながら、平生は人混みで足を踏まれてさえも命がけで争うほどの弥次馬が、意気地なくも、それお通りだ、鍋島様だ、三十五万石だ、池田様だ、三十一万石だと言って、恐れ入ってしまうことが分らないのであります。
しるこ[#「しるこ」に傍点]の鍋を覆《くつがえ》されて、面《かお》や小鬢《こびん》に夥《おびただ》しく火傷《やけど》をしながら苦しみ悶えている光景を見た時に、米友の堪忍袋《かんにんぶくろ》が一時に張り切れました。
「ばかにしてやがら」
梯子の上から一足に飛び下りました。飛び下りると共に、人の頭を渡って行って、拳を固めて手当りの近いところの侍の頭を、続けざまに三ツばかりガンと撲《なぐ》りました。
「手向いするか、無礼者」
その侍が胆をつぶした時分には、米友はつづいて二人三人目ぐらいの侍の頭を片っ端から、ポカポカと撲って歩きました。その挙動の敏捷なこと。
アッというまに、ものの十人も、つづけてお供先の侍を撲った時に、この大大名の行列は、
「狼藉者《ろうぜきもの》、お供先を要撃する賊がある」
ときいた時は、米友の姿はもう見えません。
水瓜《すいか》を並べて置いて、そのなかをみつくろって撲ったつもりで米友は、少しばかり溜飲《りゅういん》を下げて、行列の崩れたのを後ろに、今度は群衆の足許を潜《くぐ》って元のところへ走り込むと、その梯子《はしご》を横にして肩にかけ、銭受けの笊《ざる》を腰に差し、
「ざまあ見やがれ」
と言って、一散にその場を走《は》せ出しました。
「あれだ、あれだ、あれが行列へ無礼を加えた奴だ、狼藉者を取押えろ」
後ろから米友を、追いかけて来るものがあるようです。
「どっちが無礼で、どっちが狼藉なんだ、取押えろも出来がいいや」
米友はせせら笑いながら、それでも取押えられては詰らないと思って一散に逃げました。弥次馬というものは変なもので、今、鍋島様やら池田様やらのお通りへ無
前へ
次へ
全50ページ中24ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング