恰好《かっこう》で梯子の中心を取りました。やはり惜しいと思われるのはせっかくのキッカケに、後見も入らなければ、三味線太鼓も鳴らないことであります。暫くその恰好をつづけた米友は、
「エッ」
と気合を抜くと、また元の形に逆戻りして桟の板に腰を下ろして、崩れかかる梯子の中心を、いいかげんのところあたりで、パッと食い止めて元へ戻して納まりました。
「アッ」
それで見物は手に汗を握る。取敢えずこれだけの前芸は、米友がエッと言えば、見物がアッというだけの景物《けいぶつ》でありました。やはり、軽口を叩く後見がこの辺へ入らなければ、太夫さんもやりにくかろうし、合《あい》の手《て》が間《ま》が抜けるだろうという心配は無用の心配で、米友は米友らしい一人芸で、客を唸《うな》らすことができるものと認められます。
「さあ、これから、そっちの方へ歩き出すよ、歩きながら、またちっとばかり芸当をして見せる、弘法大師は東山の大の字……」
自分で口上を述べました。今度は別段に気合をかけないで、桟をつかまえた手と、腰に力を入れるとその呼吸で、梯子は米友を乗せたまま、ヒョコヒョコと動き出して、取巻いた群集の近くへのり[#「のり」に傍点]出します。
「逃げなくってもいい、お前たちの頭の上へブッ倒すようなブキな真似はしねえから、安心して見ているがいい、俺らの方は心配はねえが、後ろの方と前横を気をつけてくんな、江戸には、巾着切《きんちゃくき》りというやつがいる、人が井戸ん中へ入ってる時でもなんでもかまあずに、人の物を盗るような火事場泥棒がいる」
米友はこう言って、見物にスリと泥棒とを警戒したつもりのようでしたが、井戸の中へ入っている時に、火事場泥棒が出るといった米友の論理は、見物にはよく呑込めませんでした。たしか梯子芸をしているから、それで火事場泥棒を持ち出したのだろうと察したものなどは、血のめぐりのよい方でありました。大部分はその口上なんぞに頓着なく、これからまた梯子の上の一番にとりかかろうとする米友の姿を、固唾《かたず》を呑んで見上げました。
米友の梯子乗りの芸当は、大道芸としては珍らしいものであります。通りかかるものは立ちどまり、立ちどまったものは引きつけられて、そのあたりは人の山を築きました。この後、彼がどういう芸当をするかを固唾を呑んでながめていた時分に、群集の一角がどよめいて、
「お通りだ、お通りだ」
東橋《あずまばし》の方から一隊の大名の行列が、こっちへ向いてやって来るのであります。
「それ、お通りだ、お通りだ」
と言って、早く気のついたものはどよめきましたけれども、前の方に、米友の梯子芸に見惚《みと》れていた者は気がつきませんでした。
通りかかったのは、大名のうちでも大きな大名の行列らしくあります。お供揃いはおよそ三百人もあると見受けられます。御駕籠脇は黒蝋《くろろう》の大小さした揃いの侍が高端折《たかはしおり》に福草履《ふくぞうり》と、九尺おきに提《さ》げたお小人《こびと》の箱提灯が両側五六十、鬼灯《ほおずき》を棒へさしたように、一寸一分の上《あが》り下《さが》りもなく、粛々として練って来ました。
この大名行列のためにあわてて道をよけた人は、遠くの方からいろいろと噂をはじめる。
「御定紋《ごじょうもん》は、たしかに抱茗荷《だきみょうが》のようでございましたね、抱茗荷ならば鍋島様でございます、佐賀の鍋島様、三十五万七千石の鍋島様のお通りだ」
と言う者がありました。
「いいえ、抱茗荷じゃござんせん、たしかに揚羽《あげは》の蝶でございました、揚羽の蝶だから私は、これは備前岡山で三十一万五千二百石、池田信濃守様の御同勢だと、こう思うんでございます」
一方からはこんな申立てをするものがある。
「ナニ、そうではござんせん、たしかに抱茗荷、肥前の佐賀で、三十五万七千石、鍋島様の御人数に違いはございません」
「いいえ、揚羽でございましたよ、備前の岡山で、三十一万五千二百石……」
今までそれとは気がつかないでいて、不意にこの同勢を引受けた人、ことに屋台店の商人《あきんど》などは、狼狽して避《よ》けるところを失う有様でありました。この場合に邪魔になるのは、米友を中心として、梯子芸に夢中になっている見物の一かたまりであります。
「叱《しっ》!」
先棒が叱ってみたけれど、その一かたまりを崩すにはかなりの時がかかります。後ろの方は気がついても、前の方は全く知らないのであります。尋常ならば、強《し》いてその一かたまりを崩すことなくして通行にさしつかえないはずであったのを、そのお供先はどういうつもりか、米友を囲んだ一かたまりの中へ突っ込んで来ました。
「おやおや、お通りだ、お通りだ」
はじめて気のついた連中が、驚いて逃げ出したのを、梯子の上で米友は、じっとながめ
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