うきょう》たる一夜を、ともかく熟睡に落ちていた竜之助の安楽も長くはつづきませんでした。
 不意に夥《おびただ》しい叫喚が耳に近いところで起り、つづいて雷の落つるような音がして、家も畳も一時に震動すると気がついて、手を伸ばして枕許の刀と脇差とを探った時に、手に触れたものはヒヤリとして、しかも手答えの乏しいもの。
「水だ!」
 畳の上を水が這《は》っています。
 刀と脇差とを抱えて立ち上った時に、水は戸も障子も襖《ふすま》も一時に押破って、この寝室へ滝の如くに乱入しました。
 あっという間もなくその水に押し倒された竜之助の姿を見ることができません。
 山水の勢いは迅雷の勢いと同じことであります。あっという間に耳を蔽うの隙もありません。
 裏の山からこの水を真面《まとも》に受けたこの家の一部を、メリメリと外から裂いているうちに余の水は、もう軒を浸してしまいました。水が軒を浸す時分には、家の全体が浮き出さない限りはありません。この水は漫々と遠寄せに来る水ではなく、一時にドッと押し寄せた水ですから、土台の腰もまた一時に砕けて、砕けたところを只押《ひたお》しに押したものだから、家はユラユラと動いて流れ出しました。
 四辺《あたり》は滔々《とうとう》たる濁流であります。高い所には高張《たかはり》や炬火《たいまつ》が星のように散って、人の怒号が耳を貫きます。
「助けて!」
という悲鳴が起ると、
「おーい」
と答える声はあるけれど、どこで助けを呼んでどこで答えるのだか更にわかりません。
 避難すべき人は宵のうちから避難し尽したはずであるのに、なお逃げおくれた者があると見えて、彼処《かしこ》の屋根の上や此処《ここ》の木の枝で、悲鳴の声が連続して起ります。多くの家や小屋が、みるみる動き出して徐《おもむ》ろに流れて行きます。
 そのなかの一つの屋根の羽目《はめ》がこのとき中から押破られて、そこに姿を現わしたのは、いったん水に呑まれた机竜之助でありました。破風《はふ》を押破った竜之助は、屋根の上へのたり出でたもののようです。それでも刀と脇差だけは、下げ緒で帯へしかと結んでいたものらしくあります。屋根へ出ると菖蒲《あやめ》の生えていた棟へとりつきました。そこでホッと息をついて、自分の面《かお》を撫でてみました。頬のあたりから血が流れている、何かのはずみに怪我をしたものらしい。手足も身体中もしきりに痛むけれども、今どこにドレだけの怪我したものかわからないのであります。
 とにもかくにも屋根の棟へとりついた竜之助は、そこでホッと息をついて面を撫でてみたが、その創《きず》の大したものでないことを知り、水に浸ったわが身を身ぶるいしたのみであります。四辺《あたり》の光景がどうであるかということは一向にわかりません。またいずこに向って助けを呼ぼうとするものとも見えません。ただ自分を載せているこの家が、徐々として動いていることがわかります。出水の勢いは急であったけれど、家の流される勢いはそれと同じではありません。
 続け打ちに打つ半鐘の音は、相変らずけたたましく聞えるけれども、さきほどまで遠近《あちこち》に聞えた助けを求むる声と、それに応《こた》うる声とはこの時分は、もうあまり聞えなくなりました。面憎《つらにく》いことは、この時分になって雨の歇《や》んだ空の一角が破れて、幾日《いくか》の月か知らないけれども月の光がそこから洩れて、強盗提灯《がんどうぢょうちん》ほどに水の面《おもて》を照らしていることであります。
 その月の光に照らされたところによって見れば机竜之助は、屋根の棟にとりついたまま、さも心地よさそうに眠っていました。月の光に照らされた蒼白い面《かお》の色を見れば、眠っているのではない、ここまでやっとのたり着いて、ここで息が絶えてしまったのかも知れません。屋根はそのままで流れてはとまり、とまっては流れて、笛吹の本流の方へと漂うて行くのであります。
 屋根は洪水《おおみず》の中を漂って行くけれど、それはほかの家につっかかり、大木の幹に遮られ、山の裾に堰《せ》き留められて、或いは暗くなり、或いは明るくなり、或る時は全く見えなくなったりして、極めて緩慢に流れて行くのであります。

         二

 一夜のうちに笛吹川の沿岸は海になってしまいました。家も流れる、大木も流れる、材木や家財道具までも濁流の中に漂うて流れて行くうちに、夜が明けました。
 人畜にどのくらいの被害があったかはまだわかりません。救助や焚出しで両岸の村々は、ひきつづいて戦場のような有様であります。
 恵林寺の慢心和尚は、法衣《ころも》の袖を高く絡《から》げて自身真先に出馬して、大小の雲水を指揮して、百姓や見舞人やを叱り飛ばして、丸い頭から湯気を立てています。
 雲水どもは土地の百姓たちと力を
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