き鳴らす音がしました。人の騒ぎ罵る声は、いよいよ喧しくなりました。思うに蓑笠《みのかさ》を着けた幾多の百姓連が、得物《えもの》を携えて出水出水の警戒に当るらしくあります。村の中心ともいうべきこの小泉家へ、それらの百姓がみんないったん集まって、それぞれ部署につくもののようであります。この家では一人残らず起きて、それらの百姓たちの差図や焚出《たきだ》しなどをはじめて上を下へと騒いでいるのが、竜之助には手に取るようにわかりますけれど、誰も竜之助のところへは面《かお》を出すものがありません。手を貸せと言って来る者もなければ、御心配なさいますなと言って見舞うものもありません。この二人のことは、もうこのごろでは小泉家の誰にも、この急に当って思い出されないほどに、交渉が少ないかかり[#「かかり」に傍点]人でありました。
「この水で、お銀は道を留められた、それで帰られないのじゃ、してみれば……」
と竜之助は、はじめてお銀様のことを思いやりました。
 外の騒ぎはますます大きくなって、気のせいか、轟々《ごうごう》として水の鳴り動く音さえ聞えて来るのであります。竜之助は刀をそこへ置いて立ち、障子をあけて縁側へ出て、雨戸を少しばかりあけて外を見ました。外を見たところで、この人の眼には内と同じことに、真暗な闇のほかに何も見えるのではありません。
 しかしながら、外はドードーと雨が降っています。風はあまりないようでありましたけれど、どこかの山奥で、海嘯《つなみ》のような音が聞えないではありません。その近いあたりは、なんでも一面の大湖のように水が張りきってしまったらしく、その間を高張提灯《たかはりぢょうちん》や炬火《たいまつ》が右往左往に飛んでいるのは、さながら戦場のような光景でありました。その戦場のような光景はながめることはできないながら、その罵り合う声は、明瞭に竜之助の耳まで響いて来るのであります。
 その騒がしい声と、穏かならぬ光景とを聞いたり想像したりしてみても、空《むな》しく気を揉《も》むばかりであります。
 竜之助は雨戸を立て切って、また前のところへ帰りました。この出水も気になるし、お銀の帰りも気になるけれど、なんとも詮術《せんすべ》はありません。竜之助は一人で蒲団《ふとん》を取り出して、荒々しくそれを展《の》べて横になりました。外では半鐘の声がしきりなしに聞えるのに、内では、これもまだ早かろうのに一二匹の蚊が出て、ぶーんと耳許で唸《うな》りました。それを掌で発止《はっし》とハタいて打ち落し、うつらうつらと枕に親しみかけました。
 けれども、外はその通りに騒がしいのに、今や全村の犬も鶏も声を揚げてなきだしました。人畜ともに寝ることのできない晩に、竜之助とても安々と眠るわけにはゆきません。ただ横になったというだけで、外の騒ぎを聞き流していようというのであります。
 この東山梨というところは、言わば全体が笛吹川の谷であることは竜之助もよく知っていました。三面から翻倒《ほんとう》して来る水が、この谷に溢れ返る時の怖ろしさも、相当に峡東《こうとう》の地理の心得のある竜之助にとっては、理解ができないでもありません。
 しかし、この時分になっては竜之助は、天災の来ることを怖れるよりは寧《むし》ろ、山が大きな口をあいて裂け、我も、人も、家も、獣も、ことごとくブン流されてみたら面白いだろうという空想に駆られて、かえって外の騒ぎを痛快に思うような心持でいました。外の騒ぎもようやく耳に慣れた時分に、竜之助は眠りに落ちました。
「もし、お客様」
 竜之助が眠った時分になって、誰やら家の外から叫びました。
「もし、お客様」
 見舞に来るならば、もっと早く、まだ眠らない時分に来てくれたらよかりそうなものを、いくら食客《いそうろう》だからといって、今まで一人で抛《ほう》って置いて、ようやく眠りに就いたのを起しに来るとは、大人げないと思えば思えないでもありませんでした。
「あ、誰だ」
と、眠りかけていた竜之助は、その声で直ぐに呼び醒まされました。
「御用心なされませ、今夜はお危のうございます」
「危ないとは?」
「こんなに水が出て参りました、山水がドッと押し出すとお危のうございますから、本家の方へおいでなさいまし、お待ち申しておりまする」
「それは御苦労」
「どうか直ぐにおいで下さいまし」
と言い捨ててその者は行ってしまいました。よほどあわてていると見えて、家の外からこれだけの言葉をかけて、その返事もろくろく聞かないで取って返してしまいました。
 竜之助はあえてその言葉に従って、本家の方へ避難をしようという気は起しませんでした。寧《むし》ろ起き直ってみることさえも億劫《おっくう》がって、せっかく破られた夢を再び結び直すのに長い暇を要することなく、村のあらゆる人々の恟々《きょ
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