併せて、濁流の岸へ沈枠《しずめわく》を入れたり、川倉《かわくら》を築いたり、火の出るような働きです。ここの手を切られると、水は忽ち日下部《くさかべ》や塩山《えんざん》一帯に溢れ出す。ここの手だけは死力を尽しても防がなければならない。すでに日頃から堅固な堤防があって、昨夜来の不眠の警戒でしたけれども、水の破壊力は、人間の抵抗力を愚弄するもののようでありました。枠を沈めると浮き出し、木牛《まくら》を入れると泳ぎ出し、築いた川倉が見る間に流されて行き、あとからあとから土俵を運んだり石を転がしたり、無用にひとしい労力を昨夜から寝ずにつづけているのでありました。和尚が雲水を叱りとばしているその傍には、珍らしやムク犬がその侍者でもあるかのように神妙に控えています。
 この時のムク犬は、もはやお寺へ逃げ込んだ時のように、痩《や》せて険《けわ》しいムク犬ではありません。火水《ひみず》になって働く大勢の働きぶりと、漲《みなぎ》り返る笛吹川の洪水とを見比べては、自ら勇みをなして尾を振り立てながら、時々何をか促すように慢心和尚の面を仰ぎ見るのであります。
「和尚様、何か御用があったら及ばずながら私をお使い下さいまし」ムク犬は和尚に、自分の為すべきことの命令を待っているかのようでありました。
 そのうちに何を認めたかこの犬は、岸に立って流れの或る処にじっと目を据《す》えました。
 堤防の普請にかかっていた慢心和尚をはじめ雲水や百姓たちが、
「あ、あの犬はどうした、この水の中へ泳ぎ出したわい」
 さすがに働いていた者共も一時《いっとき》手を休めて舌を捲いてながめると、滔々《とうとう》たる濁流の真中へ向って矢を射るように泳いで行く一頭の黒犬。申すまでもなくそれはムク犬であります。
 ムクがこの場合、なんでこんな冒険をやり出したのだか、それは誰にも合点《がてん》のゆかないことです。その濁流の中を泳いで行くめあては、今しも中流を流れ行く一軒の破家《あばらや》の屋根のあたりであるらしく見えます。
 草屋根の流れて行く方向へ斜めに、或る時は濁流の中にほとんど上半身を現わして、尾を振り立てて乗り切って行くのが見えました。或る時は全身が隠れて、首だけが水の上に見えました。また或る時は身体も首もことごとく水に溺れたかと思うと、またスックと大きな面《かお》を水面に擡《もた》げて、やはり全速力を以てその屋根を追いかけて行くのであります。やがて流れて行く屋根に追いついた時分は、ここに堤防を守っていた人々とは相距《あいさ》ることがよほど遠くなって、屋根の蔭に隠れてしまったムク犬の姿は、見ることができませんでした。しかし、屋根だけは相変らず浮きつ沈みつして、下流へ押流されて、これもようやく眼界から離れるほどに遠くなってしまいました。無論、屋根のところへ泳ぎついて、屋根の蔭にかくれてしまってから後のムク犬の姿は、その首でさえも再び水面へは現われませんでした。
 ながめていた沿岸の人たちは、犬のことを中心にしてさまざまな評議です。あの犬は人を助けに行ったのだろうと言う者もありました。水を見て興を抑えることができないで、自ら飛び込んだものであろうという人もありました。いずれにしてもこの水の中へ飛び込むとは思慮のないこと、それが畜生の浅ましさ、あたら一匹の犬を殺してしまったというような話でありました。慢心和尚はその評判を聞きながら、こんなことを言いました。
「昔、淡路国《あわじのくに》岩屋の浦の八幡宮の別当《べっとう》に一匹の猛犬があった、別当が泉州の堺に行く時は、いつもその犬をつれて行ったものじゃ、その犬が行くと、土地の犬どもが怖れ縮んで動くことができなかったということじゃ。さてその猛犬は、単独《ひとり》で海を渡って堺へ行くことがある、犬の身でどうして単独で海を渡るかというに、まず海岸へ出て木を流してみるのじゃ、その木が堺の方へ流れて行くのを見て、犬はよい潮時じゃと心得て、己《おの》れが乗れるほどな板を引き出して来てそれに乗る、そうすると潮の勢いがグングンと淡路の瀬戸を越えて、泉州の堺まで犬を載せて一息に板を持って行ってしまう、そこで板から下りて身ぶるいをして、泉州の堺へ上陸するという段取りじゃ。その潮の流れ条《すじ》というのは、それほど急な流れで至って勢いが強い、この潮へ引き込まれた船は帆を張っても力が及ばないで、ずんずんと一方へ引かれて行くのじゃ。それほどの潮条《しおすじ》があることを、犬はちゃんと心得て、まず木を流して潮時を見ておいて、それから筏《いかだ》をこしらえて載るというのが感心ではないか、それ以来、この潮時を別当汐《べっとうじお》と名づけるようになったという話がある」
 お前たちより犬の方が思慮もあり、勇気もあるから、心配するなというようにも聞えました。

      
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