三
それから三日目の朝のこと、笛吹川の洪水《おおみず》も大部分は引いてしまった荒れあとの岸を、彷徨《さまよ》っている一人の女がありました。
面《おもて》は固く頭巾《ずきん》で包んだ上に、笠を深くかぶっていましたから、何者とも知ることができません。
岸を彷徨《さまよ》うて何かをしきりに求めている様子であり、或る時はまだ濁っている川の流れをながめて、そこから何か漂い着くものはないかと見ているようであり、或る時はまた岸の石ころや、砂地の間を仔細に見て、そこに埋もれている何物かを探すようにも見えました。
岸を上ってみたり、下ってみたりするこの女の挙動は、外目《よそめ》に見れば、物狂わしいもののようにも見えます。
差出《さしで》の磯の亀甲橋《きっこうばし》も水に流されて、橋杭《はしぐい》だけが、まだ水に堰《せ》かれているところへ来て、女はふと何物をか認めたらしく、あたりにあった竹の小片《こぎれ》を取り上げて、岸の水をこちらへと掻き寄せました。掻き寄せたものを手に取って見ると、それは白木の位牌《いはい》であります。位牌の文字をながめると意外にも、
「悪女大姉《あくじょだいし》」
悸《ぎょっ》としたお銀様は――この女はお銀様であります――やがて紙を取り出して、この位牌を包んで懐中《ふところ》へ入れましたが、
「こんなものは要《い》らない、わたしはこんなものを探しに来たのではない」
と言って、いったん懐ろへ入れた悪女大姉の位牌を、荒々しく懐中から取り出してそれを振り上げました。
「こんなものは要らない!」
お銀様は水の面《おもて》を睨《にら》んで突立っていると、そこへ不意に物の足音がしましたから、お銀様はあわてて、
「おや?」
驚いて振返ったお銀様は、
「見たような犬だ」
見たような犬も道理。いつのまにかお銀様の背後《うしろ》に近づいていたのは、自分の実家、有野村の藤原家へ雇われていた召使の女、お君の愛するムク犬であることは、その家のお嬢様であったお銀様が見れば、見違えるはずはないことであります。恵林寺から程遠からぬこの辺に、ムク犬が現われることは不思議はないが、三日前のあの大水の中で溺れることなく、こうして健在でいることが不思議であります。
お銀様はあの時、お君について駒井家に赴くべくわが家を去って以来、ムク犬の身の上は知りませんでした。
今ここに偶然めぐり会ってみると、不思議に堪えないながらも、さすがに懐しい心持が湧いて来ないでもありません。
「おや、お前はムクではないか」
と言った時に、ムクの後ろから少し離れた土手の上に、人の影が一つ見えることに、はじめて気がつきました。
お銀様にとってはついぞ見たことのない人、しかもそれは年増盛《としまざか》りの水気の多い女の人、この辺ではあまり見かけない肌合の、小またの切れ上った女の人が余念なく自分の方を見ていたから、お銀様もまぶしそうにその年増の女を見返していると、向うから丁寧に腰をかがめて笑顔を見せました。お銀様もそれに返しのお辞儀をしました。
「ムクや、ムクや」
その年増の女の人が、やさしい声をして犬を呼びました。果してこの犬の名をムクという。ムクの名を知っている上は、お君に縁ある人に違いない、と思っているうちに、その年増の女は土手を下って、お銀様に近い川の岸の蛇籠《じゃかご》の傍へやって来ました。
この年増の女、お銀様にはまだ知己《ちかづき》のない人でしたけれども、これはお君のもとの太夫元、女軽業の親方のお角《かく》であります。ここでムク犬が、お銀様とお角とを引合せる役目をつとめました。
「ちょうど一昨日《おととい》の夕方でありました、うちの男衆がこの出水《でみず》で雑魚《ざこ》を捕ると申しまして、四手《よつで》を下ろしておりますと、そこへこの犬が流れついたのでございます、吃驚《びっくり》してよく見ると、この犬が人間の着物をくわえてそこまで泳いで来ていたものでございますから、驚いて人を呼んで、その人をお助け申して家へお連れ申しましたけれど、どこのお方やら一向にわかりませんので……幸いに呼吸《いき》は吹き返しましてただいま、宿に休んでおいでなさるのでございますが、まだお口をおききなさるようにはなりません。そうするとこの犬がまた、わたしを引張り出すようにして外へ連れ出しましたから、もしやとそのあとをついて来てみると恵林寺様へ入りました。恵林寺様へ入りますとあすこでは、ソレ黒が来た。黒が来たと大勢してこの犬を迎えて、皆さんがお悦びになりました。やがてまたこの犬がわたくしを、川の方へ川の方へと連れて参りますから、もしや、これはもとこの犬の主人であった女の子が、川へ陥《はま》って死んでいるところへ、わたくしを連れて行くのではないかと胸騒ぎがしながら、あとをついて行っ
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