業《いんごう》なやつでございますねえ」

         六

 その後暫くあって、染井の藤堂《とうどう》の屋敷と、染井稲荷《そめいいなり》との間にある旗本の屋敷の、久しく明いていたのに人の気配《けはい》がするようです。
「ああ、化物屋敷《ばけものやしき》に買い手がついたな」
 酒屋の御用聞の小僧なんぞが早くも気がつきました。
 地所が広く、家が大きく、そうして人の住みてのないところは化物屋敷になる。化物が出ても出なくても、化物屋敷であります。どうしても化物が出なければ、人間の口が寄って集《たか》って化物をこしらえてしまいます。
 先代の殿様が、醜男《ぶおとこ》であったにも拘らず、美しいお女中を口説《くど》いたところが、そのお女中には別に思う男があって靡《なび》かない、それで殿様が残念がって、あの土蔵の中で弄《なぶ》り殺《ごろ》しにしてしまったという、あんまり新しみのない筋書の化物が出されてから久しいこと。ようやくこのごろ、人の臭いがするようになったらしいが、土地柄だけに、それほどに新たに移って来た主人の好奇《ものずき》を注意してみようという者もありません。
「小僧、酒屋の小僧」
「へえ」
 閉《とざ》してある裏門の中から、御用聞の小僧が不意に呼び留められたものだから仰天して、
「あ、お化け……」
と言って立ち竦《すく》んでしまいました。
「明日から酒を持って来い、一升ずつ、上等のやつを」
「へえ、畏《かしこ》まりました、毎度有難うございます」
 御用聞の小僧は丸くなって駈け出して、駒込七軒町の主人の店まで一散《いっさん》に逃げて来ました。
「大変……化物が酒を飲みたいってやがらあ」
 唇の色まで変っていたから、番頭や朋輩《ほうばい》の小僧どもも、気味悪く思ったり、おかしく思ったりして、
「どうしたんだ、どうしたんだ」
「あの化物屋敷で、明日から一升ずつ、上等のお酒の御用を仰付《おおせつ》かりました」
「化物屋敷でお酒の御用?」
 次に廻るべき小僧が再び確めに行った時に、ほぼその要領を得て帰りました。それは化物屋敷ではあるけれども、酒の御用を言いつけたは化物ではない。前に言いつけたことが確かであるように、再び念を押しに行った時も、確かに注文したに相違ないのであります。
 しかも最初に御用を言いつけたのは、大風《おおふう》な侍の言いぶりであったのに、二度目に確めに行った時の返事は、なまめかしい女の声であったということが、この酒屋の者の話の種でありました。それから毎日一升ずつの酒が、この屋敷へ運ばれたけれど、御用聞の小僧は、主人らしい人も、奥様らしい人も、また家来衆、雇人たちのような人の面《かお》をも、まだ見かけたことがありません。
「毎度有難うございます……」
と言って酒をそこへ置くと、
「どうも御苦労さま、それから明日はお醤油《したじ》に波の花を……」
というような注文が台所のなかから聞えて、それは女ではあるけれども、さっぱり面を見せないのが変だといえば変であります。売掛けもどうかと思って、その月の半端《はんぱ》の分を纏《まと》めて書付にして出すと、その翌日は綺麗《きれい》に払ってくれました。支払の信用と共に化物の疑念は取れて、それより以上にこの屋敷を怪しがるものはありません。
 この屋敷の一間で庭をながめながら、晩酌を試みているのは化物でもなんでもない、正真《ほんもの》の神尾主膳であります。甲府を消えてなくなった神尾主膳が、ここへ来て浴衣《ゆかた》がけで酒を飲んでいるところを見れば、かくべつ病気であったとも見えないし、また穢多に浚《さら》われて、ここへ流されたものとも見えません。
 それと、面白いことは、神尾の前に晩酌のお相手をしているのが、勝沼の宿屋にいた、もとの両国の女軽業《おんなかるわざ》の親方のお角《かく》であることであります。
「お角、お前はそんなに金が欲しいのか」
 神尾は盃を置いて、お角の面《かお》を見ました。
「御前《ごぜん》、ほんとに、わたしは今となってお金があったらと思います、何をしようにもお金がなくては動きが取れません、全く水気《みずけ》の切れたお魚のようなものでございます」
「それは御同前だ」
と言って、神尾は苦笑いをしました。
「殿様などは失礼ながら、お金をお持たせ申せば、直ぐに使っておしまいなさるけれども、わたしなんぞはそうではございません、それを資本《もとで》に、一旗揚げてみようというのでございますから、全く心がけが異《ちが》いますよ」
「全く頼もしい、お前に金を持たせれば、何か一仕事やるだろう、そこは拙者も見ているけれど、残念ながら金は無い、拙者は金がない上に、世間に面向《かおむ》けもできん、うっかりすると命までなくする」
「それでございますからね、わたしが少し資本《もとで》を工面《くめん》
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