でございます。危ねえと言ったって、こうなれば、疱瘡《ほうそう》も麻疹《はしか》も済んだようなものでございますから、生命《いのち》にかかわるような真似は致しません。何しろ、まあ、これを御縁に江戸へ帰ったら落着きましょうよ、末長くあなた様の御家来になって忠義を尽して往生すれば、それが本望でございますよ、お江戸の土を踏んで、畳の上で往生ができればそれで思い残すことはありませんな。あなた様は、どうか私の分までみっしり出世をなすっておくんなさいまし、出世をなさるには、酒と女……これがいちばん毒でございますからな、この金助が見せしめでございますよ、あの神尾の殿様も見せしめでございますよ、と言って駒井の殿様も、あんまりいいお手本にはなりませんな。どっちへ転んでも楽はできません、やっぱり酒と女で、器量相当に面白く渡った方が得かも知れませんな。してみると、器量相当以上に道楽をして来た私なんぞは、この世の仕合せ者でございましょう、下手に立身出世をして窮屈な思いをするよりは、金助は金助らしく道楽をしていた方が勝ちでございましょう。あなた様の前だが、私しゃあ江戸へ着いたら早速に、吉原へ行ってみてえとこう思います」
金助は、ぺらぺらと兵馬の前も憚《はばか》らず、こんなことを言いました。
これから心を入れ換えて忠義を尽しますという口の下から、もういい気になって吉原の話であります。
兵馬がそれを黙って聞いていると、金助は自分の放蕩した時代のことを、得意になって喋り立てました。その揚句に、
「あなた様は吉原へおいでになったことがございますか、大門《おおもん》をお潜りになったことがございますか」
「まだ行ったことはない」
「では、一度お伴《とも》を致しましょう、ナニ、一度は見てお置きにならなければ、出世ができないという譬《たと》えがございます」
「そんな譬えは聞いたことがない」
「一度は見物にいらっしゃいまし、私は江戸へ着きまして、この荷物を宿へ置いたらその足で、吉原へ行ってみるつもりでございます。こんなことを申し上げると、いかにも馬鹿野郎のようでございますけれど、正直のところ、私共なんぞはそれでございますよ、行く末、英雄豪傑になれるというわけのものではなし、また大した金持になれようという見込みもあるのじゃあございませんですから、いいかげんのところでごまかしてしまうんでございますよ。何楽しみにこの世に永らえているんでございましょう。ただ残念なことには小遣《こづかい》がありませんな。江戸へ着きましたら、少しばかり小遣にありつくような仕事を、お世話をなすっておくんなさいまし。まあ、私共の望みとしてはそのくらいのものでございますねえ」
兵馬は聞いているうちに、この野郎がかなりくだらない野郎であると思いました。けれどもこんなことを言い言い、自分の心を引いたり目つきを見たりする挙動に、多少、油断のならないところもあるように思いながら、
「金助、お前が、あの神尾主膳の在所《ありか》をさえ確めてくれたら、相当のお礼はする」
「それはなかなか大役でございますねえ」
金助はわざとらしく大仰《おおぎょう》に言い、
「しかし、あの神尾の殿様は、さすがに苦労をなすったお方だけに、届くところはなかなか届くんでございますから、あそこのところだけは感心でございますがね、あれがまあ、苦労人の取柄《とりえ》でございましょうな」
「苦労したというのはどういうことなのだ」
「どうしてあの方は、なかなか遊んだお方でございますよ」
「苦労したとは、遊んだということか」
「そうあなた様のように生真面目《きまじめ》に出られては御挨拶に困ります、苦労にも幾通りもあるのでございます、日済《ひなし》の催促で苦労するのも苦労でございます、大八車を引っぱって苦労するのも苦労でございますけれど、その苦労とは違いまして、酸《す》いも甘《あま》いも噛み分けた苦労でなくては、苦労とは申されないでございますな」
「神尾主膳という人は、そんなによく物のわかる人か」
「それは人によっては、随分悪く言う者もございますけれど、私なんぞに言わせると、よく分った殿様でございますね、何かというと手首をギュウと取ったり、首筋をグウと押えたりして白状しろなんぞと、そんな野暮《やぼ》なことはなさらずに、金助、これで一杯飲め、なんかと言って下さるのが嬉しうございますね、あの呼吸はなかなか生若《なまわか》い世間知らずのお方にはできません、やはり苦労人でないと……」
「なるほど」
兵馬は苦笑いをしました。
「そのくらいですから銭《ぜに》は残りません、いつでも貧乏をしていらっしゃるが、ああいうお方に、金を持たして上げたいものでございます、ほんとに金が生きるんでございますけれど、使い道を知っているところへは、金というやつは廻って参りません、因
前へ
次へ
全50ページ中13ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング