もはや金助と一緒に泊ってみる必要もないから、なお金助を嚇しておいて、一人だけで引上げました。
してみれば机竜之助は、すでにこの甲府の土地にはいないらしい。眼の不自由な彼が、それほど敏捷にところを変え得るはずがない。と言って神尾が隠匿《かくま》わなければそのほかに、竜之助を世話をする者があるとは思われないことであります。甲府にいないとすればどこへ行ったろう、誰が介抱してどこへ連れて行ったかということを考え来《きた》ると、兵馬は例のお絹という女のことを思わないわけにはゆかないのであります。
「あ! あの女が世話をして、また江戸へ落してやったのだろう」
それに違いない。ハタと膝を打ったけれども、そのお絹という女も主膳と一緒に、穢多の仲間に浚《さら》われてしまったとしてみれば、また捉《つか》まえどころがなくなってしまうのであります。
兵馬は茫々然としてその夜は長禅寺へ帰ったけれど、こうなってみると、ここにも安閑《あんかん》としてはいられないのであります。
表面は病気で引籠《ひきこも》っているという神尾主膳。内実は穢多に浚われたという神尾主膳。その内々の取沙汰には、甲州や相州の山奥には山窩《さんか》というものの一種があって、その仲間に引渡された時は、生涯世間へ出ることはできないということ、主膳もお絹もその山窩の者共の手に捉えられているのだろうという説もあります。
そのうちに、神尾主膳は病気保養お暇というようなことで、江戸へ帰るという噂《うわさ》がありました。その前後に神尾に召使われたものは散々《ちりぢり》になって、いつか知らぬうちに神尾家は全く甲府から没落してしまい、躑躅《つつじ》ケ崎《さき》の古屋敷も売り物に出てしまいました。駒井能登守が甲府を落ちた時は、ともかくも明確に甲府を立退いたけれど、神尾の家が甲府から消えたのは行燈《あんどん》の立消えしたようなものであります。
駒井能登守の屋敷あとには草がいや高く生え、神尾主膳の焼け跡ではまだ煙が燻《くすぶ》っている時分、甲府の町へ入り込んだ二人の旅人が、神尾の焼け跡を暫く立って見ていたが、
「神尾の屋敷もああしたものだろうよ」
若い方が言いました。
「ああしたものだろう」
やや年とった方が答えました。
「駒井能登守の方は、滝の川でともかくも落着きを確めたが、神尾主膳はどうしてるんだ」
「病気でお暇を願って、江戸へ帰ったということだ」
「そいつは表面《うわべ》のことなんだ、内実は穢多《えた》のために生捕られたという評判よ」
「それも裏の裏で、おれが思うには、まだ裏があると思うんだ」
「してみると神尾は江戸へも帰らず、穢多にも捉まらずに、無事にどこかに隠れているとでも言うのか」
「そうよ、あいつはどう見ても、穢多に取捉《とっつか》まるような男でねえ、あの奴等にしたからっても、なんぼ何でもお組頭のお邸へ火をつけて、大将を浚《さら》って行くなんて、それほどの度胸があろうとは思われねえじゃねえか」
「なるほど、そういえばそんなものだが、それにしちゃあ狂言の書き方が拙《まず》いな、拙くねえまでもあんまり綺麗《きれい》じゃねえ」
「どのみち、あの大将も破れかぶれだから、トテも上品な狂言を択《えら》んじゃあいられねえ、そこで病気を種につかってみたり、穢多を玉にしてみたり、どうやらこれで一時を切り抜いたものらしいよ」
「ふむ、そうすると病気も穢多も、みんな狂言の種かい」
「あの火事までが狂言だとこう睨《にら》んでるんだが、どんなものだ。あの大将、いよいよ尻が割れかかって、どうにもこうにも始末がつかねえから、それで奴等にかこつけて、自分で屋敷へ火をつけたんだ」
「なるほど」
「火をつけて罪は奴等へなすりつけておいて、帳尻の合わねえところは焼いてしまった……おいおい、向うから役人みたようなのが来るぜ、気をつけなくっちゃあいけねえ」
道を外《そ》らして行く二人の旅人、その若い方はがんりき[#「がんりき」に傍点]らしく、やや年とった方は七兵衛らしくあります。
この二人は何のために、また甲府までやって来たのだろう。ここには駒井能登守もいないし、神尾主膳もいなくなったし、宇津木兵馬も、机竜之助も、お松も、お君も、米友も、ムク犬も去ってしまったのに、なお何かの執着があって来たものと見なければなりません。
いつぞや持ち出した安綱の刀、それをどこぞへ隠しておいたのを、取り出しに来たものかと思えば、そうでもなく、二人はその足で直ぐに甲府を西へ突き抜けてしまいました。
それから例の早い足で瞬く間に甲信の国境まで来てしまい、山口のお関所というのは、別に手形いらずに通ることができて、信州の諏訪郡《すわごおり》へ入りました。諏訪へ着いたら止まるかと思うと、そこでも止まりません。いったい、どこへ行くつもりだろう
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