ア痛い、この野郎、ふざけやがって、餓鬼《がき》のくせに」
「金助、痛いか」
「痛ッ!」
「いつぞや、竜王へ行く途中、貴様が犬に追われて、木の上へ登っていたのを助けてやったその時のことを忘れたか」
「エ、エ!」
「その時のが拙者じゃ、鈴木の次男とやらでもなんでもない」
「ア、左様でございましたか、その時は、どうも飛んだお世話さまになりました、そういうこととは存じませんものでございますから失礼を致しました、どうかお放しなすって下さいまし、痛くてたまらねえんでございますから」
「金助、お前は神尾家の様子をよく知っているようじゃ、拙者はそれをよく聞きたいのじゃ、包まず話してくれ」
「へえ、知っているだけのことはお話し申しますから、ここを放していただきてえんでございます」
「こうしているうちに話せ、神尾主膳殿は躑躅《つつじ》ケ崎《さき》におられるかおられぬか、まずそれを申せ」
「へえ、それは……躑躅ケ崎においでのはずでございますが……」
「いるならば、これから直ぐに拙者を案内致せ」
「どうも、そういうわけには参りませんで……」
「いやいや、貴様の口ぶりによれば、神尾家の内状をよく知っているらしい、隠し立てをすればこうじゃ」
兵馬は上にのしかかって、金助をギュウギュウ言わせます。
「ア、痛ッ、面《かお》の皮が摺剥《すりむ》けてしまいます、どうか御勘弁なすって下さいまし」
「早く言ってしまえば、無事に放してやる、言わなければ命を取る」
「あ、申し上げます、実はその神尾の殿様は、躑躅ケ崎においでなさるんではねえのでございます」
「それではどこにおられるのじゃ」
「それがその……」
「真直ぐに言ってしまえ」
「ア、痛ッ、ではお前様に限って申し上げてしまいます、神尾の殿様は生捕《いけど》られておしまいなすったのでございます、あの晩、放火《つけび》に来たやつらが神尾の殿様を生捕って、どこへか連れて行ってしまったのでございます」
「それは本当か」
「本当でございますとも。けれども神尾の殿様ともあるべきお方が、穢多《えた》のために生捕りにされたとあっては、御一統のお名前にも障《さわ》りますから、それで、ああして病気お引籠りということになっているんでございます。それも生捕られたのは殿様ばかりではございません、あの御別宅においでになるお絹様というお方も、やっぱり穢多に生捕られてしまったんでございます。その行先でございますか、それはわかりません、いずれ山また山の奥の方へ連れて行かれたんでございましょう」
金助の白状は嘘《うそ》か真実《まこと》か知らないが、神尾主膳が恨みの者の手によって生捕られたことは、信じ得べき根拠があるようです。
けれども、それは兵馬が強《し》いて突き留めたいことではありません。神尾が果して机竜之助を隠匿《かくま》っているかいないかということを知りたいのが、兵馬の唯一の望みであります。しかし、不幸にしてそれは金助が全く知らないことでした。兵馬の失望したのは、全く竜之助は神尾の屋敷にいなかったと見るよりほかは仕方がないからであります。少なくともあの火事の晩に避難した者の中には、机竜之助があったと想像することはできませんでした。
「そういうわけでございますからね、私共は実は金《かね》の蔓《つる》を失ったわけなんでございますよ、神尾の殿様を種無しにしたんじゃ、これから先が案じられるのでございましてね、山ん中へ探しに行こうかとこう思ってるんでございます」
金助はようやく起してもらって、こんな愚痴を言いました。
「お前は今、どこに奉公しているのだ」
「私でございますか、私は今はどこといって奉公をしているわけではねえのでございます、神尾の殿様のお出入りで、どうやらこうして気儘《きまま》に飲食《のみくい》ができて、ブラブラ遊んでいるのでございますよ、当分は、躑躅ケ崎のお下屋敷の片《かた》っ端《ぱし》をお借り申して、あすこに住んでいるのでございます」
「どうだ、その躑躅ケ崎の屋敷とやらへ、拙者を案内してくれないか」
「そりゃよろしうございますけれど、お前様はいったいどちらのお方で、何のためにそんなに神尾様のことをお聞きになるんでございます」
「そんなことは尋ねなくともよい、今晩は拙者をその躑躅ケ崎へ案内して、お前の寝るところへ泊めてもらいたい」
「そりゃ差支えはございませんがね、なんだか気味が悪いようでございますね」
兵馬はこうして金助を嚇《おどか》しながら先に立てて、躑躅ケ崎の下屋敷へ案内させました。それから屋敷のうちを、やはり金助を嚇して案内をさせて調べてみたけれど、神尾の家来が数人詰めているだけで、別に主人らしい者もありとは見られず、また自分のめざしている人が隠れているらしくも思われませんでした。この上は詮《せん》ないことと思って兵馬は、
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