、これからどこへ行く」
「私でございますか、私はこれから少しばかり淋しいところへ行くのでございます、淋しいところと言ったからとて、別に幽霊やお化けの出るところではございません、古城《ふるじろ》の方へ参るのでございます、古城は、躑躅《つつじ》ケ崎《さき》は神尾主膳様のお下屋敷まで、これからお見舞に上ろうというんでございます」
「左様か」
 金助は言わでものことまで言ってしまいました。兵馬は計らず都合のよいことを聞いてしまいました。
「ねえ鈴木様の御次男様、昨夕《ゆうべ》の火事は、お驚きなすったでございましょうね」
 金助は同じようなことを繰返しました。
「驚いたとも」
「私も驚きましたよ、まさか、あすこへ、あれほど思い切って赤い風が吹こうとは思いませんからね」
「金助どの、あれは一体、放火《つけび》か、それともそそう火か」
「放火……いや御冗談をおっしゃっちゃいけません、この御城下の、しかも当時飛ぶ鳥を落すほどの神尾主膳様のお邸へ、どこの奴が放火をするもんですか、そそう火にきまってますよ、誰が何と言ったって、そそう火でございます、放火だなんという奴があったら、ここへ連れておいでなさいまし」
「それはそうであろう。して、神尾殿や御一族はいずれに避難をしていらっしゃる」
「神尾様のお立退き先でございますか、それはわかりませんね、よしわかっていても、そればっかりは申し上げられませんね、それを知っているのは大方、この金助ぐれえのもので……おっと危ねえ、そりゃ嘘でございます、神尾の殿様は躑躅ケ崎のお下屋敷へお立退きでございますよ、ええええ、御無事でいらっしゃいますとも、お怪我なんどはちっともおありなさりゃしません、もしお怪我があるという者があったら、ここへ連れておいでなさいまし」
「拙者《わし》も、その神尾殿に会ってお見舞を申し上げたいと思うのだが、どちらにお立退きだかわからない」
「それはそうでございましょう、躑躅ケ崎においでになることはおいでになるに違いないのでございますがね、当分はどなたにも決してお目にかかることはございません。それは御病気なんですよ、前から御病気でもって休んでおいでになったのでございます、この御病気がお癒《なお》りなさるまでは決して、それは御支配様にだってお目にかかることではございません」
「金助どの、それをお前がどうして知っている」
「どうして知っているとおっしゃったって、そこはこの金助でなければわからないのでございます、そこが金助の価値《ねうち》なんでございます」
 酔っているとは言いながら、この金助の言うことは何か心得面でありました。だから兵馬はいよいよ好い獲物《えもの》と思って、
「ところで金助どの、お前に折入って頼みたいのだが、特別に拙者だけを神尾殿に引合せてくれまいか、内々で、ぜひともお話を申し上げねばならぬことがあるのじゃ」
「へえ、それはまた、どういうことでございましょう。しかし、それはせっかくでございますが、どうもそのお頼みばかりは駄目でございますよ、エエ、そりゃもう」
「左様なことを言わずに会わしてくれ」
「会わしてくれとおっしゃったところで、いねえ者はお会わせ申すことはできねえではございませんか」
「ナニ、神尾殿はおらぬと? では、躑躅ケ崎においでになるというのは嘘か」
「エエ、なんでございます」
「今、お前は、神尾殿は躑躅ケ崎の下屋敷に立退いておいでになると言ったではないか」
「そう申しましたよ」
「そんならば、拙者は会いたいのじゃ、会って直々《じきじき》にお話し申したいことがあるから、それをお前に頼むのじゃ」
「なるほど」
「さあ、お前が躑躅ケ崎へ行くというなら、拙者も徽典館《きてんかん》へ行くことをやめて、お前と一緒に躑躅ケ崎へ行く、案内してくれ」
「そいつは困りましたな、そんな駄々をこねて下すっては困ります、お帰りなさいまし、ここからお帰りなすっておくんなさいまし」
「金助!」
 兵馬は金助の手首を取って、グッと引き寄せました。
 兵馬に強く手首を取られたものだから、金助は狼狽《うろた》えました。
「ナナ、何をなさるんで」
「拙者を躑躅ケ崎まで連れて行ってくれ」
「そりゃいけません」
「なぜいかんのだ」
「そりゃいけません」
「神尾主膳殿に会いたいのだ」
 こう言って引き寄せた兵馬の言葉が、あまりに鋭かったから金助もやや激昂《げっこう》して、
「おやおや、お前様は、私をどうしようと言うんで。おや、お前様は鈴木様の御次男様ではねえのだな」
「金助、ほかに見覚えはないか」
「知らねえ」
「よく考えてみろ」
「何だか知らねえけれど、放しておくんなせえ、放さねえと為めになりませんぜ、それこそお怪我をなさいますぜ」
 金助が振り切ろうとするのを兵馬は、地上へ難なく取って押えました。
「金助」

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