場で弄殺《なぶりごろ》しになってしまったというのが事実に近いように聞きなされます。ともかくも、牢内へ繋いでおいて相当の処分をするという手段を取らずに、その場で首をもぎ、手足を斬り、さんざんの弄殺しを試みて、四肢五体を荒川の流れへ投げ込んでしまったということが言い囃《はや》されるのであります。兵馬はありそうなことだと思いつつ、どのみち神尾の身の上にも何か変事があるだろうと予期しながら、その晩は塩山の恵林寺へ帰って泊り、翌日、早朝に立って、また甲府へ帰って見ると昨夜――というよりは今暁に近い時、神尾主膳の邸が何者かによって焼き払われたということであります。兵馬はその委《くわ》しきを知るべく、わざと僧形を避けて徽典館《きてんかん》へ通う勤番の子弟に見えるような意匠を加えて、ひとり長禅寺を立ち出でました。
 兵馬が何心なく通りかかったのは、例の折助どもを得意とする酒場の前であります。この夜もまた、恋の勝利者だの、賭博の勝利者だのが集まって、太平楽《たいへいらく》を並べている。兵馬がその前を通り過ぎた時分に、酒場の縄暖簾《なわのれん》を分けて、ゲープという酒の息を吐きながら、くわえ楊子《ようじ》で出かけた男がありました。それは縞《しま》の着物を着て、縮緬《ちりめん》の三尺帯かなにかを、ちょっと気取って尻のあたりへ締めて、兵馬の前を千鳥足で歩きながら鼻唄をうたい出しました。
 それを後ろから兵馬が見ると、なんとなく見たことのあるような男だ、鼻唄の声までが聞いたことのあるように思われてならぬ。
「はッ、はッ、はッ、何が幸《せえわ》いになるものだかわからねえ、また何が間違えになるものだかわからねえ、人間万事|塞翁《さいおう》が馬よ、馬には乗ってみろ、人には添ってみろだ」
 その途端に、兵馬はようやく感づきました。これはいつぞや竜王へ行く時、畑の中の木の上で、犬に逐《お》いかけられて狼狽《ろうばい》していた男。
 その男の名前も金助と呼ぶことまで兵馬は覚えていました。この男を捉まえてみると面白かろう。
「金助どの」
「おや、どなたでございます」
 振返って金助は、怪しい眼を闇の中に光らせました。
「拙者《わし》じゃ」
 兵馬が、わざと名乗らないでなれなれしく傍へ寄ると、
「ああ、鈴木様の御次男様でございましたね、徽典館へおいでになるのでございますか、たいそう御勉強でございますね、お若いうちは御勉強をなさらなくてはいけません」
 金助は心得面《こころえがお》にこんなことを言って、委細自分で呑込んでしまったものらしく、兵馬はかえってそれがいいと思ったから、自分も鈴木様の御次男様とやらになりすまして、
「金助どの、昨夜の火事は驚いたでござろうな」
「驚きましたにもなんにも、あんなところへ赤い風が吹いて来ようとは思いませんからな」
「お前の家には、別に怪我もなかったか」
「へえ、有難うございます、私の家なんぞには怪我なんぞはございません、よし怪我があってみたところで、私なんぞは知ったことじゃあございません」
「それは何しろよかった」
「鈴木様の御次男様、いや辰一郎様でございましたね。なんでございますか、あの徽典館は昨夜の火事で、屋根へ飛火があってお家が大層いたんでおいでなさるそうでございますが、それでも今晩、学問がおありなさるのでございますか」
「大した損処《そんしょ》もないから、今晩も集まるつもりだ」
「それは結構でございます、お若いうちは御勉強をなさらなくてはなりません、私共みたようになっては追付きませんからな。ただいま何を御勉強でございます、論語でございますか、孟子でいらっしゃいますか、子曰《しのたま》わく君子は器ならずというんでございましょう、子曰わくは結構でございますね、十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わずとありましたな、あなた様はちょうどその志学のお年頃でございましょう、ところが私なんぞは三十にして立たず、四十にして腰が抜けというところなんでございます、どうもいけません。しかし辰一郎様、人間は学問ばかりしたからといってそれでいいというわけではありませんね、青表紙をたくさん読んで、活字引《いきじびき》になってみたところで一向つまりませんな、活字引はまだいいけれども、腐れ儒者となった日には手もつけられません、学問は実地に活用しなければつまらねえんでございます。いかがでございます、時々は狂歌、都々逸《どどいつ》、柳樽《やなぎだる》の類《たぐい》をおやりになっては。ああいったものをやりますと、自然に人間が砕けて参りますな、人間にそれだけユトリが出来て参りますな、人間は朝から晩まで子曰わくではやりきれません、風流ということは大切なものでございますよ、ちと、その方を御指南致しましょうかね、は、は、は」
「金助どの」
「はい」
「お前は
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