違うのだから、ただで引括られても詰らねえじゃねえか、ちっとばかり手足をバタバタさせ、それから引括られた方がよかんべえ」
「その方がいい、そうしているうちには殿様が出て来て、長吉、長太を返しておくんなさらねえものでもあるめえ。さあ、みんな、一度に引括られてみようではねえか」
「こいつら、人外《にんがい》の分際で、武士に対して無礼を致すか」
門の中から、数多《あまた》の侍足軽の連中が飛び出しました。
その時代において、人間の部類から除外されていた種族の人に、四民のいちばん上へ立つように教えられていた武士たる者が、こんなにしてその門前で騒がれることは、あるまじきことであります。非常を過ぎた非常であります。兵馬はそれを見て、よくよくのことでなければならないと思いました。この部類の人々をかくまでに怒らせるに至った神尾の仕事に、たしかに、大きな乱暴があるものだと想像しないわけにはゆきません。
見物のなかの噂によると、事実はこうだそうです。すなわち神尾主膳がこの部落のうちで皮剥《かわはぎ》の上手を二人雇うて、犬の皮を剥がせようとしたところが、やり損じて犬を逃がしてしまった。それを神尾主膳が怒って、無惨にも二人ともに槍で突き殺してしまった。それがついにこの部落の者を怒らして、再三かけ合ったが埒《らち》があかず、ついに今夜は手詰めの談判をするために、こうして大挙してやって来たのであると。
穢多非人の分際として、苟《いやし》くも士人の門前にかかる振舞をすることは、大抵ならば同情が寄せられないはずでありますけれども、見物の大部は、ややもすれば、
「あれでは、ここの殿様が無理だ、穢多が怒るのが道理だ」
というように聞えるのであります。聞いていた兵馬も、なるほどそう言えばそうだ、たかが犬一疋のために、二人の人間を殺すとは心なき仕業《しわざ》であると、ここでも神尾の乱暴を憎む心になりました。
そのうちにバラバラと石が降りはじめました。メリメリと長屋塀の一部や、門の扉が打壊されはじめたようであります。
「始まったな――」
固唾《かたず》を呑んでながめている見物の中にも、石を拾って投げはじめる者もあります。
そのうちに、穢多《えた》どもがわーっと鬨《とき》の声を揚げて、いよいよ屋敷へ乗り込んだかと思うと、そうでなく、雪崩《なだれ》を打って逃げ出すと、その煽《あお》りを喰って見物が雪崩を打って逃げ惑いました。見れば神尾の門内から多くの侍が、白刃を抜いて切先《きっさき》を揃えて打って出でたところで、その勢いに怖れて穢多非人どもが、一度にドッと逃げ出したもののようでありました。白刃の切先を揃えて切って出でたのは、神尾の家来ばかりではあるまい、この近いところに住んでいる勤番のうちから、加勢が盛んに来たものと見えます。
穢多のうちには、切られたものも二人や三人ではないらしい。さすがに白刃を見ると彼等は胆《きも》を奪われ、パッと逃げ散ってしまったが、切って出でた侍たちは長追いをせずに、そのまま門の中へ引込んでしまいました。一旦逃げ散った穢多どもは、また一団《ひとかたまり》になったけれども、今度は別に文句も言わずに、門前に斬り倒された数名の手負《ておい》を引担いで、そのままいずこともなく引上げて行く模様であります。
ともかく、この場の騒動はこれだけで一段落を告げましたけれど、彼等の恨みがこれだけで鎮まるべしとも思えず、神尾の方でもまた、いわゆる穢多非人|風情《ふぜい》から斯様《かよう》な無礼を加えられて、その分に済ましておくべしとも思われないのであります。
その翌日、聞いてみると、果して昨夜の納まりは容易ならぬことでありました。なんでも、いったん神尾の門前を引上げた彼等の群れは荒川の岸に集まって、手負《ておい》を介抱したり、善後策を講じたりしているところへ、不意に与力同心が押寄せて、片っぱしからピシピシ縄にかけたということであります。縄にかけられないものは、命からがらいずれへか逃げ散ってしまったということであります。
それだけの評判が長禅寺の境内までも聞えたから兵馬は、また急いで例の姿をして町の中へ立ち出でました。
右の風聞のなお一層くわしきことを知ろうとして町へ出てみると、町では三人寄ればこの話であります。それを聞き纏《まと》めてみると、長禅寺で聞いたよりはいっそう惨酷《さんこく》なものでありました。
神尾の門前を引上げた彼等が集まっていたのは、下飯田村の八幡社のあたりと言うことであったということで、そこへ踏み込まれて、ピシピシと縄をかけられた数は二十人という者もあるし、三十人というものもあり、或いは百人にも余るなんぞと話している者もありました。
その縄をかけられた者共の処分について、ずいぶん烈しい噂《うわさ》が立っていました。一人残らずその
前へ
次へ
全50ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング