寅次郎の二の舞だ」
と言ったまま多くを語らず、それをわからないなりで艪《ろ》を操《あやつ》っている若い男は、駒井甚三郎に盲目的に信従している者と見なければなりません。
やがてこのバッテーラが神奈川へ近くなると、闇の間にきらめく星のようなものがいくつも見え出しました。
「清吉、あれを見ろ」
甚三郎が指さすところに、三本マストの大船が、海を圧して浮んでいます。
世相はさまざまであります。一方には尊王攘夷が盛んであると共に、一方にはまた西洋を見なければならぬと悟る者も多くありました。駒井甚三郎はこうしてコッソリと抜け出したけれども、この年、幕府からは向山隼人正《むこうやまはやとのしょう》が正使として、田辺外国奉行支配組頭がこれに添い、別に徳川民部大輔《とくがわみんぶたいふ》は山高石見守《やまたかいわみのかみ》をお傅《もり》として、仏蘭西《フランス》の万国博覧会を視察に出かけるような世の中になりました。その随行としては杉浦愛蔵、保科《ほしな》俊太郎、渋沢篤太夫、高松凌雲、箕作《みづくり》貞一郎、山内元三郎らをはじめ、水戸、会津、唐津等から、それぞれの人材が出かけることになりました。
それとはまた別に、長者町に妾宅を構えた鰡八大尽《ぼらはちだいじん》も、御多分に洩れず洋行することになりました。これは政治向の視察よりも商売向を調べたいのですから、数十人の番頭を召連れて、顧問として各種の商人に同行してもらい、それに大尽もかなり年をとっているから、途中万一の心配のため、医者から看護人から、花のような女中まで連れ、その上に、外国へ行っての気候や食物の変化を慮《おもんばか》って日本の食料品を充分積み込み、腕の冴《さ》えた料理人を召抱え、その他、衣類から、酒類から、万事ぬかりなく、向うへ行って附ける味噌まで用意して行こうという騒ぎでありました。
その前祝いのために、この妾宅で立振舞《たちぶるまい》がありました。それはまた、なかなか盛んなる景気でありました。余興には美人を集めて、鬼ケ島の征伐をするということであります。案内を受けた朝野《ちょうや》の名流は、ゾロ、ゾロ、ゾロと定刻からこの妾宅へ詰めかけて来ました。
この朝野の名流というのが、いつも大抵きまった面振《かおぶれ》なのであります。何か事があるとゾロ、ゾロ、ゾロと出て来て、ズラリと面《おもて》を並べて設けの席に着きます。
それから、主人側と来客が鹿爪《しかつめ》らしい声、よそゆきの口調を出しておたがいに、おテンタラの交換をするのであります。主人側は、かく朝野の名流の御来場を賜わりましたことは、不肖《ふしょう》身にとって光栄とするところでございます、テナことを言うのであります。そうすると来賓側も負けない気になって、主人が老いてますます壮《さか》んにして海外雄飛の志を遂げんとするは、商業界のみならず、我々後進のために無上の教訓である、テナことを言うのであります。
そのおテンタラの交換が済むと、それから主客が打解けての宴会がはじまります。その宴会の前後には余興が行われました。
余興も例の鬼ケ島の征伐に至ると、もう主客ともに大童《おおわらわ》であります。美人連を鬼に仕立てて、朝野の名流がそれを追蒐《おっか》け廻って、キャッキャッという騒ぎでありました。
さて、この隣家に控えているのがほかならぬ道庵先生であります。これをそのままで置いては、それこそ道庵先生健在なりやと言いたくなるのであります。ところが先生、どうしたものかいっこう振いません。不在でもあるかと思うと、立派に在宅しているのだから、子分のなかでも気の早いデモ倉というのが堪り兼ねて、
「先生、あれでいいですか、長州征伐の兵隊たちは艱苦《かんく》のうちに、引くことも進むこともできねえで困っているのに、あんな泰平楽《たいへいらく》な旅立ちをしていいもんですか、ずいぶんふざけてるじゃございませんか、先生として、あれをあのままにしておけますか」
眼の色を変えて詰め寄せて来ました時に、道庵先生は泰然自若《たいぜんじじゃく》として盃を挙げ、
「まあ、打捨《うっちゃ》っておけ、万事はおれの腹にある」
腹の大きいところを指さしました。けれどもデモ倉には、先生の腹の大きいところを理解するだけの頭がありませんでした。
「先生、いやにすましてるねえ、お腹《なか》がどうかしたんですかい」
南条|力《つとむ》と五十嵐甲子雄《いがらしきねお》の二人は、上方《かみがた》の風雲を聞いて急に江戸を立つことになりました。宇津木兵馬はそれを送って神奈川まで行きました。
神奈川の宿《しゅく》の背後《うしろ》の小高い丘の上で三人は休みました。眼の前には神奈川の沖、横浜の港が展開されています。秋の空は高く晴れ渡っています。
兵馬の眼を驚かしたのは、眼の前の沖
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