に、見慣れぬ三本|檣《マスト》の大船が横たわっていることであります。その当時の漁船や、番船や、また幕府の御用船なども、その大きな黒船の前では、巨人の周囲を取巻く小児のようにしか見えません。兵馬がその巨船に向って、しきりに驚異の眼を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》っているのを南条力は、莞爾《かんじ》として傍から申しました、
「あれは和蘭《オランダ》でフレガットと呼ぶ種類の軍艦だ、噸数《トンすう》は三千噸、馬力は四百馬力というところだろう、毛唐《けとう》はあれ以上の軍艦を何百も持っている、日本にはあれだけの船を見ることも珍しいのだ、残念なことだ、日本の船であれと競争するのは、大砲へ弓矢を以て向うのと同じことじゃ。大砲といえば、あのくらいの船で、あれに三十ドイムの施条砲《しじょうほう》が二十六門は載っているだろう、それに小口径のやつも十門以上はあるだろう。乗組か、左様、五百人は大丈夫だな。日本でも早くあのくらいの船で、この神奈川の海を埋めてみたいものじゃ。船と大砲のことを考えると、拙者はいつでも駒井甚三郎のことを思う。あの男を西洋へやって、充分に船と大砲の研究をさせておけば、国家のために大した働きをなすのだが、惜しいものだ。あの男はいったい、今どこにいるか知らん、滝の川以来、もう一度会って話したいと思っていたが、ついにその所在を知ることができなかった、これも残念」
南条力は一種の感慨と、軒昂《けんこう》たる意気を眉宇《びう》の間《かん》に現わしてこう申します。
神奈川の宿の外れまで二人を送って別れた宇津木兵馬は、その帰りに神奈川の町の中へ入ってみると、そこにも目を驚かすものが多くありました。今まで京都や江戸で見聞した気分とは、まるっきり違った気分に打たれないわけにはゆきませんでした。神奈川の七軒町へ来ると、大きな一構えの建築を見出して屋根の上をながめると、横文字で、No. 9 と記してあります。兵馬はそれを見て、ははあ、これが有名なナンバーナインというものだなと思いました。兵馬はここで岩亀楼《がんきろう》の喜遊という遊女が、外国人に肌を触れることをいやがって、「露をだに厭《いと》ふ大和《やまと》の女郎花《おみなへし》、降るあめりかに袖は濡らさじ」という歌を詠《よ》んで自害したという話を思い出しました。しかしここへ来て見ると、降るアメリカも、意気なイギリスも、揚々と出入りして、遊女たちも露を厭うような、しおらしい風情《ふぜい》はあんまり見受けないようでした。岩亀楼とはどこだか知らないが、兵馬もあの話は誰かのこしらえごとではないかと思いました。
兵馬の頭はこの新しい開港場へ来ると、いたく動揺してしまいました。何か大きな渦の中へでも捲き込まれて行くような心持で町の中を去って、また小高い丘へ登りました。そこで松の木蔭に坐って横浜の港と東海筋とを、しんみりと眺めました。大きな渦へ捲き込まれそうであった頭の動揺がここへ来ると、また静かになりました。そうして松の木蔭でゆっくりと休みながら海を見ていると、この時にかの大きな船が煙を吐きはじめました。やや暫く見ているうちに、徐々としてその船が動き出しました。
黒烟《こくえん》を吐いて本牧《ほんもく》の沖に消えて行く巨船の後ろ影を見送っているうちに、兵馬は、壮快な感じから、一種の悲痛な情が湧いて来るのを、禁ずることができません。
誰を送るともなしに、あの船の行方に名残《なご》りが惜しまれるようになりました。その船が見えなくなった後に、自分は敵《かたき》をうたねばならない身だと思って、雄々しくも、腰の刀を揺り上げて立ちました。
底本:「大菩薩峠5」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年2月22日第1刷発行
底本の親本:「大菩薩峠 三」筑摩書房
1976(昭和51)年6月20日初版発行
※「躑躅《つつじ》ケ崎《さき》」「一ケ所」「二ケ所」「鬼ケ島」の「ケ」を小書きしない扱いは、底本通りにしました。
入力:(株)モモ
校正:原田頌子
2002年9月21日作成
2003年6月15日修正
青空文庫作成ファイル:
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