。振返った途端に、右の頬《ほお》げたから上下の歯を併《あわ》せて斜めに切って、左のあばらの下まで切り下げられて、二言《ふたこと》ともありません。
宇治山田の米友が、弥勒寺橋の長屋へ帰って来たのは暁方《あけがた》のことでありました。戸をあけて内へ入って見ると、家の中はまだ暗いけれども、夜前と別に変ったこともありません。土間を見ると、竜之助の穿《は》いて出た草履《ぞうり》がちゃんと脱ぎ揃えてあります。
そろそろと座敷へ上った米友は、そっと屏風の中を覗《のぞ》いて見ると、竜之助は右枕になってよく眠っておりました。その蒼白《あおじろ》い面《かお》が薄暗い中で、何とも言えず痛々しげに見えるのであります。
「うーむ」
と言って米友は、それを覗きながら腕組みをして唸りました。そうかといって、よく眠っているものを起そうとするでもありません。枕許の刀架を見ると、夜前見ておいたところよりはこころもち前へ進んでいるかと思われるだけで、大小一腰は少しの変りもなく、米友は昨日の朝したように、強《し》いてその刀を取って調べてみようでもありませんでした。
こうして屏風の上から暫く眺めて唸っていた米友は、思い出したように炉の近いところへ来て火を焚きつけました。
「チェッ」
火がよく焚きつかないで舌打ちをしました。ようやく火が燃え上った時分に米友は、ぼんやりとその火をながめていました。しばらくぼんやりと火をながめていた米友が、また急に思い出したように立ち上って、流し元へ行って、二升だきの鍋をさげて来ました。鍋の中には昨夕《ゆうべ》のうちにしかけておいた米があります。
その鍋を自在鍵にかけて米友は、またぼんやりして鍋を見つめました。せっかくの焚火が消えかかるのに驚いて、また慌《あわ》てて薪を加えました。再び盛んに燃え上る火の前に米友は、またぼんやりとして、その火の色と二升だきの鍋の底とを見つめていました。
そのうちに火が威勢よく燃えて、鍋の中の飯が吹き出すと、米友は慌てて鍋の蓋を取って、またその鍋を見つめて、ぼんやりとしていました。その時屏風の中で寝返りの音がして、さも苦しそうに呻《うめ》く声がしました。その声に驚かされた米友は、眼をギョロギョロさせて屏風の方を見返りました。
「眼の見えない者を斬った!」
屏風の中の人は、夢か、うつつか、こう言った言葉に思わず身ぶるいして、
「エエ!」
米友は眼を光らせました。それから尾を引いたような長い唸りが続きました。
矢庭《やにわ》にその席を立った米友は、また屏風のところへ行って覗いて見ました。さきには右枕になっていた竜之助が、今度は左枕になって寝ていました。蒼白い面には苦悶の色がありありと現われていました。気のせいか、一筋の涙痕《るいこん》が頬を伝うて流れているもののように見えますけれども、やはりよく眠っているには睡っているに違いありません。
また炉辺《ろばた》へ帰った米友は、火を引いて鍋を自在からこころもち揺り上げました。
ここに米友は、不思議の感に打たれています。昨夜、この人を追うて出てついに行方《ゆくえ》を見失ったが、それとは別にはからざる人を助けて来ました。
相生町の老女の家へ、人と犬とを送り届けて、昨夜出た人の行方を心許《こころもと》なく帰って見ればその人は、極めて無事にこうして眠っているのであります。
そもそもこの人は昨夜、何のためにどこまで行って、いつ帰ったかということが、米友には測り切れない疑問でありました。それよりも眼の見えないはずの人が、目の見える自分を出し抜いて無事に帰っていることが、奇怪千万に思われてなりません。
こいつは偽盲目《にせめくら》じゃないかと、米友はこの時にもまたそう思い出しました。
二十
多分石川島の造船所から乗り出したと思われるバッテーラが、この真暗な中を無提灯で、浜御殿の沖へ乗り出しました。
「どこへおいでなさるんでございます」
艪《ろ》を押していた若い男が尋ねました。
「西洋へ」
と答えたのは、駒井甚三郎の声であります。
「エエ! その西洋へ、こんなちっぽけな船で?」
「これで行くんじゃない、沖へ出ると大きな船がある」
「へえ、いったい、あなた様は、どうしてそんなお心持におなりなさったんです、何の御用で西洋へおいでなさるのでございます」
バッテーラを漕ぎ出したのはこの二人。人足の寄場《よせば》であった石川島。敲《たた》きや追放に処せられたもので、引受人がなくて、放してやるとまた無宿人になってしまいそうなものを、ここに集めて仕事をさせておいたから、おそらくここに駒井甚三郎のためにバッテーラを漕いでいるのは、そのなかの一人と思われます。二人とも同じような陣笠を被《かぶ》って、羅紗《らしゃ》の筒袖の羽織を着ていました。
「吉田
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