きるし、橋の上の人の提灯も、橋の下の舟の提灯も、絵に描いたように見えるけれども、それを眺めているのではありません。
暫くこうして塀の際に立っていた竜之助は、息をついているのであります。隠岐守の屋敷の隣は一橋殿で、その向うは牧野越中守の中屋敷、つづいて大岡、酒井、松平|因幡守《いなばのかみ》等の屋敷、それから新大橋であります。
ここへ来て立っている竜之助は、血に渇《かわ》いていました。たった今は両国橋の上で、斬って捨つべかりし人を斬り損ないました。そこにはたしかに邪魔物があった、その邪魔物は人でなくて動物でありました。その動物はもちろん犬であります。
その犬が……竜之助がここへ来ても、なお不審に思うのはその犬が、猛然としてその主人らしいのを防いでいたけれど、しかも自分に向って、なんらかの親しみがなかった犬とは思われないことであります。ここへ来て、はじめて思い越すよう、伊勢から出て東海道を下る時、七里の渡しから浜松までの道中を、自分のために道案内してくれた不思議な犬があった。自分が全く明を失ったのは、あの犬と離れた後のことである。犬と離れて自分は、ある女の世話になって東海道を下ったが、あれから犬はどこへ行ったやら。いま出逢った犬が、どうもその犬であるような気がしてならぬ。
斬らんとして斬り損じたことが、今宵に限って、まだ疑問として残されていたけれど、それがために血に渇《かわ》いている心の渇きは、癒《いや》されたものとは思われません。
犬と人とをもろともに橋の下へ斬り落して、いや、斬り損じて落して、直ぐに刃《やいば》を納めて、橋上を西へ走りました。幸いにして橋番にも怪しまれずに、一気に広小路から元柳橋を越えて、ここの塀下に立ってみると、病み上りの身には、ほとんど堪え難い息切れがします。
しかし、ともかくここまで来たのは、これから河岸を新大橋へ廻って、新大橋を渡って、弥勒寺橋《みろくじばし》の長屋へ帰るつもりと思わねばなりません。けれどもそれはこのまま、すんなりとは帰れますまい。
市中の見廻りや辻番が怖いとならば、それは出て来た時も同じこと。このままで帰れないのは、途中のそれらの心配ではなくて、人を斬らんとして斬り損じたことは、水を飲まんとして飲み損じたものと同じことであります。人を斬ろうとして家を出たものが斬らずに帰ることは、水を飲まんとして井戸へ行ったものが、水を得ずして帰るのと同じことであります。
こうして竜之助は、本多隠岐守の中屋敷の塀の下に立って、河岸に向いて立っておりました。
竜之助がここに立っているとは知らず、後ろから静かに歩いて来る人があります。それもたった一人で歩いて来ます。提灯も点《つ》けずにこの夜中を一人で歩いて来るのは、不思議に似て不思議にあらず、これはやはり杖をついた按摩《あんま》でありました。笛を吹かないのはこのあたりが、いずれもお屋敷の塀であると知ってのことでしょう。
「もし」
竜之助がその按摩を呼び留めました。
「はい」
按摩は驚いたように、ピタリと杖を留めました。
「あの、本所へ参りたいのだが、その道筋は、これをどう参ってよろしいか教えてもらいたい」
「本所へおいでなさるのでございますか、本所はどちらへ」
「弥勒寺橋に近いところまで」
「弥勒寺橋……それならば、両国へおいでなすった方がお得でございましょう、これから少々戻りにはなりますがね」
「その両国へ出ないで、新大橋を渡って行きたいと思うのだが」
「新大橋……左様ならば、これを真直ぐにおいでなさいまし、わたくしもそちらの方へ参りますから、なんなら……」
と言いながら按摩《あんま》は、静かに歩いて竜之助の前を通り過ぎて行きます。
「今、両国に身投げがあったそうでございますね、でも助かったそうでございますよ」
按摩は自分の気を引き立てるために、わざとこんなことを言って、
「米沢町のお得意へ参りましてな、ついこんなに遅くなってしまいましてな、先方では泊って行けとおっしゃって下すったんですがね、ナーニ夜道は按摩の常だと言って、こうして出て参りましたよ、送って下さるというのを断わりましてな。自慢じゃあございませんが、これが勘《かん》のせいで……わたくしも新大橋を渡って本所へ参るんでございます、これからまだ一軒お寄り申すところがありますから、それへ寄って、本所の二ツ目まで帰るんでございます。按摩ではございますが二ツ目へ帰ります。当節は世の中が物騒でございますから、うっかり夜道はできませんけれど、そこは按摩でございますから……おや、危のうございますよ、ここに水溜りがございますから」
こう言って按摩が振返った時に、ヒヤリと冷たい風。音もなく下りて来た一刀。
「えッ、目の見えない者を斬ったな!」
かわいそうに、まだ年の若い按摩でありました
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