すそ》を引いて、さながら長局《ながつぼね》の廊下を歩むような足どりで、悠々寛々《ゆうゆうかんかん》と足を運んでいることは、尋常の沙汰とは思われません。
お化粧をしていた面《おもて》は絵に見るもののように美しくありました。裲襠の肩が外れて、着物の褄《つま》も裾もハラハラと乱れていました。見れば真白な素足に、冷々《ひやひや》する露の下りた橋板の上を踏んでいます。
さすがに賑わしい両国橋の上も下も、天地の眠る時分には眠らなければなりません。
「ムクや、お前わたしと一緒においで、離れちゃいやよ」
と女の人は言いました。それは間《あい》の山《やま》のお君であります。お君の歩くのと一緒に、ムク犬もまたこの橋の上を歩いていました。
橋の真中へ来た時分に、お君は欄干に寄り添うて、水の流れをながめながら、
「ムクや、お前、離れちゃいけないよ、今度こそは間の山へ帰るんだから、これからお前、その間の道中が長いのだから、お前がついていてくれないと、わたしは、とても間の山までは行けやしない。それにお前は、どうかすると途中で、わたしを捨てたがるんだもの……ずいぶんお前は薄情な犬だこと、わたしよりもお前は、あのお松さんが好きになったのでしょう、だからお前は、わたしのところへは来ないで、お松さんのところへ尋ねて来るようになったのでしょう。お松さんは誰にも好かれます、兵馬さんにも好かれます、御老女様にも好かれます、また出入りのお武士《さむらい》たちもみんなお松様を好い人だと言って賞めています、それだのに、わたしは誰にも好かれません、みんなわたしを嫌います、駒井能登守様も、わたしを捨てて舟で逃げて行きました、お前、そうしておいで、お前を逃がさないように、これからどんなことがあっても、お前とわたしとは離れないように、ちゃんと鎖でつないで上げるから」
お君は犬に向って、こんなことを言いながら扱帯《しごき》を解いたものと見え、その扱帯の端でムク犬の首をグルグルと巻きました。ムクはけねんに堪えやらぬ面をして主人を見上げながら、主人のする通りになっていると、
「さあ、こうしておいで、こうして行きさえすれば大丈夫、これから後は、お前とわたしが離れることはない、ふたり一緒に間の山へ帰れるから」
扱帯《しごき》の一端を自分の手に持って橋の上を歩きはじめました。お君は、やはり気が変になっています。草も木も眠っているのだから、何人《なんぴと》もこの主従の異形《いぎょう》な夜行《よあるき》を見てあやしむものはありません。
少しばかり歩き出した時に、悄々《しおしお》と歩いていたムク犬が後ろを見返りました。
「何をしているの、早く歩かなければ夜が明けてしまいます」
お君は扱帯の端を強く引張りました。けれどもムク犬にはこたえませんでした。
「早くお歩きよ、夜が明けると少し都合が悪いことがあるんだから」
それでもムク犬は動きませんでした。
「あれはお前、向う両国で、左へ曲ると駒止橋、真直ぐに行けば回向院、それを左へ曲ると一の橋、一の橋を渡らないで竪川通《たてかわどお》りを真直ぐに行くと相生町」
お君はこんなことを繰返して、ぼんやりとこし方《かた》をながめながら立っていました。
「おや、誰か人が来るのだね、人が来るからお前はそれを待ってるのかい」
この夜は真夜中過ぎとはいえ、月のない夜ではありませんでした。鎌よりは少し幅の広い月が、たしか愛宕《あたご》の山の上あたりに隠れていなければならない晩でありました。だから九十六間の両国橋の上に物の影があるとき、それが全く認められない程の晩ではありません。この時分に、橋の左の方の側をふらふらと歩いて行く黒い人影がありました。さてこそムク犬が、それに感づいたのは不思議ではありません。
その黒い人影というのは、頭巾をかぶって、竹の杖をついた辻斬の人であります。米友を出し抜いて弥勒寺長屋《みろくじながや》を出た竜之助は、いつのまにか、こうしてここまで来ていました。
お君はゾッとして、
「まあ、なんだか怖くなってしまった、早く行きましょう、お前は誰に見られてもかまわないか知らないが、わたしはそうはゆかないの、夜の明けないうちにこの橋を渡りきらないと、あとから追手がかかるかも知れないから」
お君は強く扱帯《しごき》を引張りながら西へ向いて歩き出しましたけれど、犬はいっかな身動きもしません。頑《がん》として主人の意に従わないのみか猛犬は、かえって猛然として牙《きば》を鳴らしました。
犬が牙を鳴らした時に、人が近づいています。
駒止橋を渡って右手のところに辻番があるにはあるのです。しかしこの番人は、昼のうちお葬式が、橋の上を幾つ通ったかということを数えていればそれで役目の済む番人でしたから、深夜、眠い目をこすって、メソッコを売る必要はなか
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