ったかも知れません。
お君もムク犬も無事にこの橋を渡りかけたように、この人影も無事に橋を渡ってここまで来ました。お君主従が行けば行く、とまればとまるのだから、たしかにそのあとを跟《つ》けて来たものと見られないではありません。
「どなた」
と言ったけれども返事がありません。お君は犬に向って、
「それごらん、お前が早く歩かないから、人が来ているじゃないか、相生町から、お前とわたしを追いかけて誰か来たんでしょう、誰でしょう、御老女様でしょうか、お松さんでしょうか、どなた」
とお君は、犬に向ってこんなことを言いました。けれども犬は答えず、やがて一声高く吠えました。
いつしか杖を捨てた黒い人影は、刀を抜いています。
言い知れぬ恐怖に襲われたお君は、そこに立ち竦《すく》んで、よろよろと倒れかかった片手を橋の欄干に持たせた途端に、
「あれ! 誰かお前の前にいる、お前を殺そうとしている、危ない!」
十九
弥勒寺橋《みろくじばし》の長屋から、机竜之助のあとを追うて出た宇治山田の米友は、そのあとを追うことにかなり苦しみました。
なぜならば、外は月の光が暗いので、たしかに目星をつけて行く当の人影は、さながら煙のように、現われたり消えたりして行くからであります。人通りはまるっきり絶えてはいたけれども、弥勒寺橋の長屋を出て西へ向いて真直ぐに行けば、六間堀に浅野の辻番があります。右へ行くと、小浜の辻番があります。
それを真直ぐには行かないで、少し後戻りをして林町の方へ出ました。林町の河岸地《かしじ》を二の橋まで来た時に、不意に竜之助の姿が見えなくなりました。米友はせき込んで小走りに走って見たところ、やはりいずれにもその姿が見えませんから、残念がって立っている時に、二の橋の欄干の側をフラフラと歩き出したのがやはりその人でありました。
占めたと思って米友が、そのあとを抜き足で追っかけると、竜之助は煙のように橋を渡ってしまいました。米友がつづいて二の橋を渡ろうとする時に、行手から六尺棒を持った大男の体が見え出しました。
「やあ、あいつが向う河岸の辻番だ」
と米友は当惑して、小戻りして林町の町家の天水桶の蔭へ隠れると、鈴木の辻番は二の橋を渡って、米友の隠れている天水桶の前を、素通りして行ってしまいました。
それをやり過ごした米友が、天水桶の蔭から出て二の橋を渡りきって、相生町四丁目の河岸地へ来た時分には、不幸にしてまたも竜之助の姿を見失ってしまいました。
「チェッ」
米友は舌打ちをして忌々《いまいま》しがりました。さてどっちへ行ってみたらよかろう。たしかに橋を渡って真直ぐには行かないだろうと思う理由があります。それは、つい目の先に鈴木の辻番があって、それを通り越してもまたじきに関播磨守《せきはりまのかみ》の辻番に突き当ります。だから、夜分なんの用事かこうして出歩く人が、ことさらに関所の多いところをえらんで通るはずはなかろうと思ったからであります。
それで米友は、左手の相生町の角を真直ぐに行きました。気のせいか、今夜の辻番はいつもと変って、なんとなく穏かでないらしく、相生町四丁目の向う角にある本多の辻番などは、何か声高《こわだか》に番人の話が聞えます。それでもまあ無事に辻番の眼を潜って、相生町の三丁目から二丁目へかかったけれど、いずれへ向いても人らしいものの影を見ることはできません。
「チェッ」
二丁目の河岸《かし》を通りかかると、そこに一軒の大きな構えの家の表だけがあいていました。そして、その前に提灯を持った人が二三人出入りをしているので、米友は立ちどまって、はっと気がつきました。この家は箱惣の家であります。前に自分が留守をしていたことのある家、そこで浪人を追い払ったことのある家、またこの間はそこの井戸で、子供を水中から救い出したことの覚えのあるその家だけが物穏《ものおだや》かでないから、米友はギックリと立ちどまって、暫く様子を見なければなりません。
その家の前に提灯をさげて、二三の人を差図をしているらしいのは、まだ若い女でありました。
「お秋さん、お前は台所町の方へ廻って下さい、お前さんと栄助さんがあちらから廻って、辻番でいちいちお聞き申してみて下さい、そうしてやはり両国橋へ出て、こちらの組と落合うようにして下さい。わたしはどうしても両国を渡ったものとしか思われない、でも途中で辻番に留められているかも知れないから、よく聞いて下さい」
この差図をしている若い女の人の声、それが、まさに聞いたことのある人の声でしたから、
「おいおい、お前はお松さんじゃねえか」
「おや、どなた」
女は振返って、
「まあ、お前は米友さんじゃないか」
「うむ、俺《おい》らだ」
「どうしてこの夜更けに、お前さん、こんなところへ……それでもよ
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