」
「面白いね、血を見なければ納まらねえ刀というようなやつに、お目にかかってみてえものだね。権現様の大嫌いな村正の刀というのがそれなんだってね。お前の持っているのは、そりゃ村正か」
「村正ではないけれど……よく切れる刀だ」
と言って竜之助は、どうやら横になって寝込んでしまったもののようです。米友はなお黙ってしきりに栗をゆでていたが、栗もかなりゆだったと見たから、大鉄瓶をさげて流し元へ、その湯をこぼしに行きました。湯をこぼして小笊《こざる》の中へ栗を入れて、それと鉄瓶の水を入れ換えたのを両手に持って、
「栗がゆだった、一つ食わねえか」
と言って屏風の中を覗《のぞ》いて見ると、病人さながらの竜之助が、首をうずめて寝ていた横面《よこがお》が、痛ましいほどにやつれています。そのくせ刀は、濡れた柄《つか》をこころもち斜めにして、あ[#「あ」に傍点]と言えばさ[#「さ」に傍点]と鞘《さや》を抜け出るばかりに置いてあるのが、殺気を流すのであります。
夜になると風が銀杏《いちょう》の木の葉をひらひらと落して来ました。弥勒寺《みろくじ》の鐘が九ツを打った時分に、屏風の蔭に寝ていた机竜之助はウンと寝返りを打ちました。
こちらの炉の傍に寝ていた米友は、その寝返りの音を聞くと、蒲団から首だけを出して屏風の方を見ていました。屏風の中はそれっきり静かなもので、すやすやと夢を結んでいるものらしくあります。それで米友も首を引込めて、また枕に就きました。それから、しばらくして屏風の蔭から、すっくと立った人のあった時には、もう米友は眠ってしまったものと見えて、動きません。
屏風の蔭からそっと忍び足に出た竜之助は、いつのまにか身仕度をしています。面《かお》には覆面をして、羽織を引っかけて、例の刀を左に提げて、ソロソロと屏風の麓を抜き足して歩き出したのは、甲府にいた時と同じような姿であります。ただあの時よりは一層、足許が危なく、屏風から手を放した時は倒れそうに見えました。それでもよろよろとして、細目につけてあった行燈《あんどん》にも、炉端に置いてあった煙草盆にも突き当らず、さぐりさぐり米友の枕許を通り越して、蒲団の一端を跨《また》ごうとした途端に、
「ウーン」
と言って寝像《ねぞう》の悪い米友は足を出しました。その足を避けようとした竜之助は、よろよろとよろめいて、行燈に片手をかけました。さては眼を醒《さ》ましたかと思った米友は、案外にも眼を醒ましたのではなく、やはりよく寝ているのであります。
行燈のところで、米友の寝息をうかがうらしい竜之助は、左の親指を刀の鍔《つば》にあてがって立っています。もし米友が狸寝入りをしているものならば、竜之助はこれを斬ってしまうつもりでしょう。幸いにして米友は熟睡しています。足を一本、蒲団の外へはみ出しても知らないくらいによく寝ています。
ほんとに米友がこの場合によく寝ていることは幸いでした。それは米友のために幸いであるのみならず、竜之助のためにも幸いです。いったい、竜之助は米友を米友と知らないでいるように、米友もまた竜之助を竜之助と知らないでいるのであります。おたがいに知らないでいるけれども、米友が竜之助を疑うように、竜之助もまた米友を疑わないわけにはゆきません。話をしているうちに、ちゃんぽんになっていた話が、或るところへ行ってピタリと合うことのあるのが不思議でありました。この前の日に、米友は何か急に思い当ったらしく、竜之助に向って、
「おい、お前は、本当の盲目《めくら》かい、盲目の真似をしているんじゃねえかな」
と言ったことがありました。何のつもりで米友がこう言ったのだか、その時に竜之助は思わずヒヤリとさせられました。米友が竜之助に疑いを懐《いだ》きはじめたのは、蓋《けだ》しこの時からのことであります。けれども、ここで熟睡していたから、その疑いもなんのことはなく、米友が寝像の悪いままでほしいままに寝ていると、行燈に片手をかけていた竜之助も、やや暫く立っていて、やがてまた一足歩き出した途端に行燈の火が消えました。
細目にしてあった行燈の火が消えたことと消えないこととは、竜之助にとっては、大した障《さわ》りではありますまい。それと共に裏の雨戸が一枚、音もなく開きました。竜之助はその極めて僅かの間から外へ出てしまいました。
竜之助が外へ出ると共に、むっくりと蒲団を刎退《はねの》けたのが米友であります。
暗い中から、短気なる米友としては悠々と、壁に立てかけてあった手槍を取って、同じく外へ飛び出しました。
十八
この真夜中過ぎた晩に、両国橋の上を、たった一人で渡って行く女の人があります。女一人で今時分この橋を渡って行くことでさえが、思いもかけないことであるのに、その女の人は長い裲襠《うちかけ》の裳裾《も
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