ねえことがあるんだ」
「合点のゆかないこと、なにもこれほど世話になっているお前に、迷惑をかけるようなことをした覚えはないつもりだが」
「別に俺らも、お前から迷惑をかけられたとも思わねえが、今朝起きて見て、どうもちっとばかりおかしいことがあるんだ」
「そのおかしいこととは?」
「それだ、お前は、俺らに断わりなしで、ゆんべ夜中にどこへか出かけやしねえか」
「そんなことはない」
「無え? 無えとするとどうも変だぜ。まあいいや、なけりゃねえでいいけれど、お前、何事があってもまだ当分、外へ出ちゃならねえことは知ってるだろう」
「そりゃ承知している」
「お前が外へ出て悪いのみならずだ、俺らも当分は外へ出られねえことも知ってるだろうな」
「それも知っている」
「二人を、そっとここの長屋へ隠してくれた鐘撞堂《かねつきどう》の親方の親切のことも、お前にゃわかってるだろうな」
「それもわかっている」
「何だか委《くわ》しいことは知らねえが、そうして眼が潰《つぶ》れて、その上に身体が弱くて悩んでいるお前の命を、取りてえと覘《ねら》っている奴があるそうだから、俺《おい》らは癪に触って、それでお前のために力になってやりてえと思っているんだ。眼が見えなくなって身体の悪い人間を苛《いじ》めようてのは、これより上の卑怯な仕業《しわざ》はねえから、それで俺らは、できねえながらも、お前のために力になってやりてえと思うんだ。そうは思うんだけれども、その力になってやりてえ俺らも同じように、当分明るくは外へ出られねえんだ。なんでもこの間、浅草の広小路で撲《なぐ》ってやった侍の組だの、吉原で喧嘩をした茶袋だのというのが俺らのすじょうを知って、俺らを取捉《とっつか》めようとして探してるんだそうだ、だから当分、ほとぼりの冷めるまでは、お前と一緒に隠れているがいいというから、それで隠れてるんだ、そのうちに、ほとぼりが冷めたらお前を連れて、お前の行きてえと言うところへ連れて行ってやりてえと、こう思ってるんだ。だからお前、そのほとぼりが冷めるまでは、おたがいに窮屈でも、じっとこうして隠れていなくちゃならねえ。何か用があるんなら、夜になって俺らが、そっと出かけて上手に用をたして来てやるから、遠慮なく言っておくんなせえよ、俺らに気の毒だなんぞと、よけいな気兼ねをして、拙《へた》なことをやってくれると、おたがいの為めにならねえんだからね」
米友は何か心がかりのことがあると覚しく、神妙な念の押し方をしました。まだ起き上らない竜之助は、黙ってそれを聞き流しています。竜之助が面《かお》を洗いに縁側へ出たあとで米友は、そこらを片づけながら、二枚折りの屏風の中へ入って行きました。
敷きっぱなしにしてある蒲団《ふとん》の枕許に形ばかりの刀架《かたなかけ》が置いてあって、それに大小の一腰が置いてあります。
ふと米友は、その大剣の柄《つか》のところに触れてみて、
「はてな」
その刀を手に取って屏風の外《はず》れの明るいところへ持ち出し、柄に手を当てて撫でてみました。柄は水で洗ったもののようにビッショリです。
「おかしいぞ」
米友は暫くその刀を見ていたが、柄に手をかけて、引き抜いて見ようと意気込むところを後ろから、
「危ない、危ない、怪我をするからよせ」
手を伸ばして、その刀を取り上げたのは、いつのまにか後ろに立っていた竜之助でありました。
「は、は、は」
米友はなんとなくきまりの悪そうな笑い方をして引込みました。朝飯が済んでしまうと、竜之助は少しの間、日当りのよい縁側のところに坐って日光を浴びていましたが、また屏風の中へ隠れてしまいました。
米友は炉の傍で、大きな鉄瓶の中へ栗を入れて煮ています。栗を煮ながら眼をクリクリさせて黙然《もくねん》と考え込んでいると、
「友吉どの」
と言って屏風の中から、竜之助の声でありましたから、
「何だい」
「お前はたった今、この刀の中身を抜いて見たか」
「抜いて見やしねえ、抜いて見ようとしたところだ」
「それならばよいけれども、この後もあることだから、気をつけて刀には触らぬようにしてくれ、頼む」
「そりゃいけねえ、この狭いところでお前と二人っきりの暮しだ、いつどういうハズミで刀に触らねえとも限らねえや」
「それを言うのではない、今のように刀を抜いて見ようとしては困る」
「抜いて見たからっていいじゃねえか、お前と俺らの仲だもの」
「そうじゃない、刀は切れるものだから、お前に怪我をさせては悪い、それでワザワザ頼むのじゃ」
「御冗談でしょう、こう見えても子供じゃございませんぜ、子供がおもちゃのサーベルをいじるのとは違うんだぜ」
「だから頼むのだ、玩具《おもちゃ》のサーベルならば、怪我をしても知れたものだけれど、刀によっては、血を見なければ納まらぬ刀があるからな
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