くような一声。それは確かに女の声で、その声ともろともに、バッタリと人の倒れる音、それが自分の坐っている窓の下で起ったのだから、金を封じてはおられません。
すっくと立って、窓を押し開いて外を見ました。
未申《ひつじさる》のあたりに月があって、外面《そとも》をかなり明るく照していましたから、老人の眼にもはっきりとわかります。
その窓の下の溝《みぞ》のところに、確かに人が斬られて横たわっています。斬られたのは、たった今で、声こそ立てられないけれど、手足はまだピクピクと動いているものらしくあります。
老人は愕然《がくぜん》として、その道筋の左右を見廻すと、お竹蔵の塀について、榛《はん》の木《き》馬場の方へふらふらと歩いて行く一個の人影を認めないわけにはゆきません。その人影は、頭巾《ずきん》で覆面をした武士の姿に相違ないことも、お倉の壁に反射した月の光で明らかに認めることができるのであります。しかも、それが悠々としてというよりは、ふらふらとして足許危なく歩いて行くのは、或いは傷ついているのかとも思われるほどです。けれども、ガラリと窓をあけた途端に、その覆面の武士はひらりといずこへか身を隠してしまいました。
遠藤老人はそのままにしておけばよかったのだけれども、実は宵《よい》からの酒気がまだ去らないのに、この老人は若い時から槍が多少の得意でありました。だから長押《なげし》にかけてあった槍を取って、酒気に駆られて、ひとりで表へ飛び出したのは年寄に似気《にげ》なきことでした。
「待て、曲者」
その槍を構えて、いま辻斬の狼藉者《ろうぜきもの》のふらふらと歩んで行って、ふと隠れたと覚《おぼ》しい榛の木馬場の前まで追いかけました。
寝静まっていた老人の家の者は誰もそれを知りません。また近所の人とても、更にそれと知って出合う様子も見えないほど夜は更けていました。もしまたそれと知った者があっても、斯様《かよう》な際には、心ならずも空寝入りをして聞き逃すのが例でありました。遠藤老人とても酒の気さえなければ、そうしていたに違いないけれども、酒は、怜悧《れいり》を以って聞えたこの老人をもかほどな無謀なものにしてしまいました。
辻斬の狼藉者は、たしかに老人の声に驚いて榛の木馬場を後ろへ逃げたようです。しかもその逃げぶりが蹌々踉々《そうそうろうろう》として頼りないこと、巣立ちの鳥のような歩きぶりであります。手を伸ばせば、羽掻《はがい》じめになりそうな逃げぶりでありましたから老人は、
「奴め、怪我をしているな」
といちずにそう思ってしまいました。だから勇気はいよいよ増して一息に追いかけた時に、辻斬の狼藉者は、ふいと角を曲って榛の木馬場の稲荷の社《やしろ》の中へ逃げ込んだものと認められます。
「逃げようとて逃がさんぞ」
稲荷の前に並んでいた榛の木の間から狙《ねら》って槍をエイと一声、突き込んだけれども槍は流れました。手許へ繰り込んで、二度突き出した時に、榛の木の蔭にいた辻斬の狼藉者は、ふらふらと二足ばかり前へ出ました。
二度突き損じたと思った老人は、二三歩とびさがりました。そこへ全身を現わした覆面の辻斬の狼藉者は、刀を抜いて腰のところへあてがって、腰から上を屈《かが》めてこっちを見ています。
三度、突きかけようとした遠藤老人は、どうしたものか、突くことができません。ハッハッと息が切れ出しました。槍がワナワナと顫《ふる》え出しました。突くことができないのみならず、引くこともできないらしくあります。
「エイ!」
覆面の辻斬の狼藉者の一声が、氷の上を走るように聞えました。それと同時に血煙が立って、かわいそうに遠藤老人は、槍を投げ出して二つになってそこへのめりました。
十七
その翌日、弥勒寺橋《みろくじばし》の長屋の中で、
「さあ、お飯《まんま》が出来たよ」
と二枚折りの屏風《びょうぶ》の中を見込んだのは、宇治山田の米友であります。
「どれ、起きようかな」
屏風の中で、蒲団から半身を起したのは机竜之助であります。以前よりはまた痩《や》せて、色は一層の蒼白《あおじろ》さを加えているもののようです。
「どうもよく寝られるじゃねえか、俺《おい》らなぞは、宵《よい》のうちは早く寝て朝は早く起きてえんだが、お前は宵に寝て朝もまた寝て……もっともお前には、夜の明けるということはねえんだろうな」
と言って米友は苦笑《にがわら》いしました。
「友吉どの、いろいろとお世話になって済まんな」
竜之助は、まだ全く起き上りはしません。
「お世話になるのならねえの、そんなことはどうでもいいが、俺《おい》らはちっとばかりお前に聞きてえことがあるんだ」
「何を……」
「何をじゃねえんだ、こうして見ていると俺らには、どうもお前の仕方に合点《がてん》のゆか
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