なんぞは大味《おおあじ》で食べられません」
「なるほど、それも一理」
「拙者はまた天性、釣り上手に出来てるんでございますよ、拙者が綸《いと》を垂れると魚類が争って集まって参り、ぜひ道庵さんに釣られたい、わたしが先に釣られるんだから、お前さん傍《わき》へ寄っておいでというような具合で、魚の方から釣られに来るんでございますから感心なものです」
「そりゃそうあるべきもの、不発《ふはつ》の中《ちゅう》といって、釣りにもせよ、網にもせよ、好きの道に至ると迎えずして獲物《えもの》が到るものじゃ」
「全くその通りでございます、だから世間の釣られに行く奴が、馬鹿に見えてたまらねえんでございます」
「そこまで至ると貴殿もなかなか話せる、ぜひ一夕《いっせき》、芝浦あたりへ舟を同じうして、お伴《とも》を致したいものでござる」
「結構、大賛成でございます、ぜひお伴を致しましょう」
「しからばそのうちと言わず、今夕、この会が済み次第、舟を命ずることに致そう、おさしつかえはござらぬか」
「エ、今夕、今日でございますか。差支えはねえようなものだが……」
道庵先生はハタと当惑しました。実は先生、行きがかり上、釣りが上手であるようなことを言ってしまったけれども、釣竿の持ち方も怪しいものです。けれどもことここに至ると、今更後ろは見せられない羽目になってしまいました。遠藤老人は、ワザと道庵先生を困らせるつもりかどうか知らないが、先生を断わり切れないように仕向けておいて、女中を呼んで漁の用意をすっかり命じてしまいました。
こうなると道庵もまた、痩意地を張らないわけにはゆきません。血の出るような声をして、
「ようガス、芝浦であろうと、上総房州《かずさぼうしゅう》であろうと、どこへでも行きましょう、拙者も男だ」
道庵先生はよけいな口を利《き》いたために、この会が果ててから、遠藤老人に誘われて芝浦へ出漁せねばならぬことになりました。
道庵を誘い出した遠藤老人は、船頭を雇い、家来をつれて、浜御殿の沖あたりまで舟を漕がせ、得意の投網を試みて腕の冴《さ》えたところを見せました。
道庵はもとより口ほどのことはなかったけれども、まんざら心得がないでもないらしく、ちょいちょい二三寸ぐらいのところを引っかけては鼻をうごめかせて、その度毎に天地をうごかすような自慢であります。遠藤老人はもとより道庵に口ほどのことは期待していないし、やがて竿で水を掻《か》き廻すようなことになったら、ミッチリ油を取ってやろうと構えていたものを、海の中にはかなり暢気《のんき》な魚もあると見えて、たとえ一匹でも二匹でも、道庵の針にかかるようなものがあるから、その自慢を聞かせられても苦笑いしているばかりです。
それでもこの一夕はかなり暢気な気分になって、また万八へ帰り、そこで道庵と別れて亀沢町の隠宅へ帰ったのは、夜もかなり更けていました。
この人は旗本の隠居でも、そんなに大身ではありません。三百石ほどの家督を倅《せがれ》に譲って隠居の身だけれども、若い時分から家の経済が上手でありました。それ故に、今の身分になっても裕福であります。
こんなに夜が更けて帰っても寝る前に、ちゃんとその日の算盤《そろばん》を置いてみなければ寝られない癖がありました。他《よそ》へ廻して貸付けさせた金の利廻りや、地面家作の取立てや、知行所の上り高というようなことを、倅に代っていちいち算当して、帳面を記しておかねば寝られない癖です。当時、大名にも旗本にも、内緒《ないしょう》の苦しいのが多く、うわべは大身に構えても、町人に借金があって首が廻らなかったり、また札差《ふださし》をさんざん強請《ゆす》るようなことが、少なくとも己《おの》れの家に限ってはその憂いのないことと、利が利を産んで行く未来の算をしてみると、いつも一種の得意に満たされて、言わん方なき快感を催すのでありました。その快感に浸《ひた》されながら、枕について夢を結ぶのが十年一日の如く、この老人の習慣でありました。
そうかと言って、この老人は吝嗇《けち》と罵《ののし》られるほどに汚い貯め方をするのでもありません。相当のことだけはして、誰にもそんなに見縊《みくび》られもせずに伸ばして行くところは、なかなか上手なものです。今も老人はその算当をしてしまって、幾片《いくひら》かの金を封じにかかると、その窓の下でバタバタと人の走る音がしました。
「はて、今時分」
と封じ金をこしらえる手を休めて老人が小首を傾《かし》げました。老人もかなり夜が更け渡っていることは知っているし、またこの時分は江戸市中がどことなく物騒で、夜更けなんぞは滅多にひとり歩きをするものもないことなぞは心得ているのであります。それを今、窓下でバタバタと人の足音がするから変に思いました。
「あれー、助けてエ」
絹を裂
前へ
次へ
全50ページ中40ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング