れはこの煙草入を見ると、高島の野郎が懐しくってたまらねえ。そりゃ高島が二十代の時分のことでしたよ……どういうわけでお前、おれが高島とそんなに懇意であるかと言ったところでお前、あれも今いう通り長崎の生れなんだろう、それにお前、医者の方であの男は打捨《うっちゃ》っておけねえ男なんだよ、今でこそ種疱瘡《うえぼうそう》といって誰もそんなに珍らしがらねえが、あれを和蘭《オランダ》から聞いて、日本でためしてみたのは、高島が初めだろうよ。そんなわけで、あの男は金があった上に、おれよりも少し頭がいいから世間から騒がれるようになったのさ。拙者なんぞも、このうえ金があって頭がよくって御覧《ごろう》じろ、じきに謀叛を起して日本の国をひっくり返してしまう、そうなると事が穏かでねえから、こうしてみんなにばかにされながら貧乏しているのさ、つまり人助けのために貧乏しているようなわけさ」
 道庵がこんなことを言って、一座をにがにがしく思わせているうちに、やはり高島秋帆のことが話題になって、次に江川太郎左衛門のこと、それから砲術の門下のことにまで及んでついに、
「時に、あの駒井甚三郎は……」
と言う者がありました。
「なるほど、駒井能登守殿、その後は一向お沙汰を聞かぬ」
「左様、駒井氏」
「駒井甚三郎か、なるほどな」
「甲府から帰って以来、さっぱり消息《たより》を知らせぬ、あの駒井能登守……」
と言って、一座は駒井能登守の噂になりました。これらの連中は能登守が、何によって躓《つまず》いたかをよく知らないものと見えます。よし内々は聞くところがあっても、公開の席へは遠慮をしているらしく見えます。
「不思議なこともあればあるもので、拙者この間、意外なところで駒井殿らしい人を見かけ申したよ」
 これは道庵先生の隣席にいた、遠藤良助という旗本の隠居でありました。
「遠藤殿には駒井甚三郎を見かけたと申されますか、していずれのところで」
 しかるべき大身の隠居らしいのが、遠藤に向って尋ねました。
「実はな、先日、手前は舟を※[#「にんべん+就」、第3水準1−14−40]《やと》うて芝浦へ投網《とあみ》に参りましてな、その帰り途でござった、浜御殿に近いところで、見慣れぬ西洋型のバッテーラが石川島の方へ波を切って行く、手前の舟がそれと擦《す》り違いざま、なにげなくバッテーラのうちを見ますとな、笠を被って羅紗《らしゃ》の筒袖を着て、手に巻尺と分銅《ふんどう》のようなものを持って舳先《へさき》に立っていた人、それがどうも駒井甚三郎殿としか見えないのでござった。手前も一目見ただけで、言葉をかけたわけではなし、しかとしたことは申し上げられんが、今でもあれは駒井甚三郎に相違ないと思うていますな」
「なるほど、バッテーラに乗って、海を測量する、駒井のやりそうな仕事じゃ。ことによるとあの辺に隠れて、何か海軍の仕事をしているのではないか」
「なんにしても、あれが生きておれば結構、あれだけの人材を、今むざむざ葬るのはまことに惜しいものじゃ」
「いったい、駒井が甲州を罷《や》めたのは、神尾主膳との間が面白くないためか、それともほかに何か仔細があってか」
「駒井としては神尾なぞは眼中にあるまい、主膳と勢力争いでもしたように見られては、駒井がかわいそうじゃ」
 旗本の隠居や諸士の間に、駒井の噂がようやく問題になっていたけれど、道庵先生は能登守のことをあまりよく知りませんから、八十文の千住の安煙草入から煙草を出してふかしていました。
 この遠藤良助という旗本の隠居は投網が好きで、上手で、かつ自慢でありました。駒井の噂がいいかげんのところで消えると、それから魚の話にまでうつって行きました。遠藤老人は、人からそそのかされて、得意の投網の話をはじめると、いずれも謹聴しました。
 道庵先生は、そんなことにさまで興を催さないから、思わず大欠伸《おおあくび》をすると遠藤老人は、道庵先生の席を顧みて、
「これはこれは、道庵先生、久しくお見えなさらんな、相変らずお盛んで結構、ちとやって来給え」
「遠藤の御隠居、暫くでございましたな、相変らず投網の御自慢、さいぜんから面白く拝聴しておりますよ、実は拙者もあの方は大好きで、ついお話に聴き惚れて、夢中になって大欠伸をしてしまいましたよ」
「は、は、は、しかしまあお世辞にも先生が、我が党の士であってくれるのは嬉しい」
「ところが、拙者は投網の方はあんまり得手《えて》ではございませんよ、その代り釣りと来たら、御隠居の前だが、おそらく当今では稀人《まれびと》の部でござんしょうな」
「ははあ、先生、釣りをおやんなさるか、ついぞ聞きそれ申したがそれは頼もしいこと」
「君子は釣《ちょう》して網《もう》せずでございますな、いったん釣りの細かいところの趣味を味わった者には、御隠居の前だが、網
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