一位稲荷大明神と書いてあって、そのお札で撫でると、お医者さんでも癒《なお》らない病気が癒るとされてあるものです。ですから、気の変になった人や、狐につかれた人のために、能勢様へお札を貰いに行く者が黒山のようです。
そこでお松は能勢様へ行って、お君のために稲荷様のお札をいただいて、帰りに和泉橋のところへ出ると、笠をかぶって袈裟法衣《けさころも》に草鞋穿《わらじば》きの坊さんが杖をついて、さっさと歩んで来る。それに引添うて、一匹の真黒い逞《たくま》しい犬が威勢よく走って来るのを見かけました。
「まあ、ムクだね、珍らしい、お前、今までどこにいたの」
甲州で別れて以来のムクは、お松の傍へ来て、身体をこすりつけて、尾を振って、勇み喜ぶのであります。
「お前さん、この犬を知っておいでか、オホホホ」
笠の中から、お松を見て笑っているのは慢心和尚です。
「御出家さん、あなたがこの犬をお連れ下さいましたのでございますか」
「はいはい、わしが連れて参りました」
「よくお連れ下さいました、この犬の主人のおりますところを、わたしがよく存じておりますから御案内を致しましょう」
「それはそれは。しかし、わしはほかに用事があっての、お前の方へ行っておられないから、持主によろしく申してくれ」
と言ってこの出家は、ムク犬の頭を三べん撫《な》で、お松に名前を尋ねる隙も与えないで、さっさと行ってしまいました。
お松は呆気《あっけ》に取られましたけれども、それにしても、笠の中から自分を見ていた坊さんの面《かお》がまるいものだと思いました。
十六
道庵先生は、柳橋の万八楼で開かれた書画会へ出かけて行きました。(その席で先生一流の漫罵やまぜっ返しがあったけれどこれを略す。)宴会の時分に、誰の口からともなく、この正月に亡くなった高島秋帆の噂が出ました。そうすると席の半ばにいた道庵先生が、しゃしゃり出てこんなことを言いました、
「四郎太夫はエライよ。実は拙者も長崎の生れでね、(註、道庵先生はこんなことを言うけれど、事実長崎の生れであるや否やは怪しいものである。)高島のことはよく知っているよ。太閤《たいこう》時代からの家柄でね、先祖代々、異国と御直《おじき》商売というのをやっていたからなかなか金持よ、俸禄はたった七十俵五人|扶持《ぶち》しきゃ貰っていねえけれど、五十万石の大名と同じぐらいの金があったそうだよ。そうでなきゃお前、あれだけの仕事ができるものかな、やに[#「やに」に傍点]っこい大名じゃあトテモ高島の真似はできねえね。それだからお前、とうとう謀叛人《むほんにん》と見られちゃったのさ。あれでお前、ほんとに謀叛する気であって御覧《ごろう》じろ、大塩平八郎なんぞより、ズット大仕掛けのことができるんだね。だからお上でも怖くって仕方がねえ、とうとう謀叛人にされちゃってね、牢へまでぶち込まれて晩年は不遇といったようなわけさ。しかしまあ、あの男なんぞはなんにしても近世の人物さ」
道庵先生は友達気取りで高島四郎太夫の話を始めながら、懐中から取り出したのは千住の紙煙草入の安物であります。
「いや皆さん、これだこれだ、これはその八十文で買った拙者の安煙草入でげすがね……」
また始まった。高島四郎太夫を友達扱いはよかったけれども、安煙草入を満座の中へさらけ出して、八十文の値段までブチまけるから、それでお里が知れてしまいます。
「この煙草入について四郎太夫を憶《おも》い起すんでございますよ、まあお聞きなさいまし、拙者が若い時分、四郎太夫に奢《おご》らせて、友人両三輩と共に深川に遊んだと思召《おぼしめ》せ、その席へ幇間《ほうかん》が一人やって来て言うことには、ただいま拙《せつ》は、途中で結構なお煙草入の落ちていたのを見て参りました、金唐革《きんからかわ》で珊瑚珠《さんごじゅ》の|緒〆《おじめ》、ちょっと見たところが百両|下《した》のお煙草入ではございません……てなことを言うと、それを聞いた高島が吃驚《びっくり》して腰のまわりを探った様子であったが、やがて赤い面《かお》をして腰から自分の煙草入を抜き取ってね、中の煙草を出して丁寧にハタいて、それを幇間の前へ置いたものさ。幇間が吃驚して、そんなわけじゃございません、旦那様をかついだわけではございません、なんて言いわけをするのを、高島が言うことには、なにもお前らにかつがれたところが恥と思うおれではない、ただ煙草入を落したものがあると聞いて、自分の腰を撫でてみたおれの心が恥かしいと言ったものさね。それで幇間にその煙草入をくれてしまった、それが薄色珊瑚の緒〆に古渡《こわた》りの金唐革というわけだ。その後はこの通り八十文の千住の紙の安煙草入、おれの持っているこれと同じやつ、これよりほかにあの男は持たなかったはずだ。だからお
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