なさいまし、わたしのいうことが嘘か本当か、直ぐおわかりになりますから」
「吉原というのは、これから遠いところかえ」
「遠いといったところで知れたものでございます、一里半と思ったら損はございますまい」
「お前、その吉原というところへ、わたしを案内しておくれ」
「いいえ……それはどうも」
「それごらん、わたしを連れて行くことはできまい、お前がつれて行かなければ、わたしは一人で行きます」
 女はこう言って、スーッと出て行きました。

 お角と共に宇津木兵馬が再び吉原の廓内へ引返した時分には騒動は鎮《しず》まって、万字楼の野戦病院も解散され、道庵先生はいずれへ立退いたか姿が見えません。
 たしかに神尾主膳と共にこの楼へ送られて来たのは二人づれであったということ、その一人は盲目《めくら》の人であったということ、その盲目の人がなかばで血を吐いて別室に移されたということ、騒動の時に誰も彼も逃げ出したけれども、結局、その盲目の血を吐いた人だけはひとり別室へ取残されたままでいたこと、それと気がついて、ちょうど近所へ来合せて飲んでいた道庵先生を頼んで、その乗物で助け出してもらおうとしたところから……その後のなりゆきまで漸く聞き出すことができました。その盲目の客が移されたという別室へ来て見れば、夜具と蒲団がそのままにあるばかりで、人の気配はありません。この客は道庵先生が乗って来た切棒の駕籠にうつされて、その駕籠|側《わき》には梯子を持った小兵《こひょう》の男、天から降ったか地から湧いたか、遽《にわ》かに騒動の場へ現われて、多数の歩兵隊を相手に大格闘をした男が附いて門を出てしまったのは、騒動が鎮まったのとほぼ同じくらいの時刻だということでありました。
 これだけのことを兵馬とお角が尋ね上げた時分には、もう夜が明け渡っていました。
 そこでお角と共に長者町へ急ぐことにきめました。お角は兵馬が何故に自分と同じ人を深く尋ねるのだか、それを知ることができませんけれども、自分としてはぜひとも尋ね出して染井の屋敷へ帰らなければならないと思って、どこまでも兵馬と行動を共に、土手から二挺の駕籠を雇って長者町へ飛ばせました。
 長者町へ着いて見ると、道庵先生は帰っているにはいるが寝込んでしまって、容易に起きないのを起して様子をたずねると、いっこう要領を得ません。
 あんぽつ[#「あんぽつ」に傍点]に乗せて盲目の客を送り出したのは全く道庵の知らないことで、その駕籠|傍《わき》についていた小兵の梯子乗りが知っているだろうとのことです。
 それは近頃、浅草の広小路へ出る梯子乗りの友吉というものであったらしいとのこと。よって兵馬は探りの方針を、この梯子乗りに向けなければならなくなりました。

         十五

 お君は帯をするようになりました。その時にお松が、
「お君さん、おめでとうございます」
と言って祝うと、
「いいえ……」
と言ってまっかな面《かお》をし、
「お松さん、わたしはこの子がやっぱり生れない方が仕合せだと思いますわ」
「何をおっしゃいます、このおめでたい矢先に、そんなことを」
「いいえ、めでたいことではありません、わたしにとっても少しもめでたいことではございませんし、この子にとっても決してめでたいことではございません、この子は父無《ててな》し子《ご》と言われて一生涯、明るいところへは出られませんもの」
「まあ、父無し子……このお子さんは、あのお立派な駒井能登守様とおっしゃる親御様をお持ちではございませぬか」
「いいえ、この子は駒井能登守の子ではございませぬ、わたくしの子でございます、それ故にわたくしは、どのようなことがあっても能登守の子としては育てません、わたくしの子として育てて参ります。それよりか、わたくしはいっそ難産で、この子と一緒に死んでしまえば、それに越したことはないと思っているのでございますよ」
「まあ、聞いてさえゾッとします、わたしはそんなことを聞きたくはありません、もっと面白い話をしましょうよ」
 お松は力一杯に、お君を慰めようとします。
 お君は何を考えたかハラハラと涙をおとしていたが、ふらふらと立ち上りました。
「お君さん、どこへいらっしゃるの」
「はい、わたしは、間《あい》の山《やま》へ」
 その瞳《ひとみ》の色が定まっておりませんから、お松は怖ろしいほど心配になって、
「まあ、お話がありますから、お坐りなさいませ」
 強《し》いてお君の袖を引いて引留めました。
 それからお松は、お君のために心配のあまり、神田の和泉町《いずみちょう》の能勢様《のせさま》というのへ参詣をすることになりました。
 和泉町の能勢様というのは、四千八百石の旗本で、そのお屋敷のうちにお稲荷様があって、そのお稲荷様から能勢の黒札というお札が出る。お札の表には正
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