らしい。
「お前さんはどなた」
「金助でございます」
「金助さんとおっしゃるのは?」
「へえ、ただいま殿様のお伴《とも》をして帰ったばかりでございます」
「お角さんはどうしました、お前さんと一緒に帰りましたか」
「いいえ、あの方は、まだ帰りませんで、吉原へ引返して参りました。わたくしはまたその途中で頼まれまして、こちら様へ殿様をお届け申したついでに、こうして御厄介になっているのでございます」
「それでは帰って来たのは、お前さんと、当家の主人の二人きりなの」
「左様でございます」
「も一人の、その連れの人はどうしました」
「それでございますよ、そのお連れのお方の行方が知れなくなったので、それでお角さんと、もう一人のお方が探しに上ったんでございます、わっしはあとを頼まれて、殿様をこの屋敷へお連れ申したんでございますよ」
「そりゃ嘘でしょう」
「どうして嘘なんぞを申しましょう、本当のことでございます」
「嘘、嘘、お前さんと、あの御別家の奥さんやお角さんと、腹を合せてわたしを欺《だま》して、あの人を隠したんでしょう」
「おやおや、腹を合せて……私があの人をお隠し申すにもお隠し申さないにも、てんでそのお方にお目にかかったことはないのでございますもの……」
「いいえ、お前さんたちの企《たくら》みは、ちゃんとわたしが心得ています」
「わっしどもの企み? いったい私は、こうして今晩はじめてお屋敷へ上ったものでございますよ、それはあちらにいる時分には、殿様にずいぶん御恩を受けましたけれど、江戸へ参りましては、昨晩はからずも吉原で殿様にお目にかかったばかり、なにも人様に怨まれるような企みを致しました覚えはございませんが」
「そんならなぜ、あの人を残して、こちらの主人だけを連れて帰りました」
「なぜ連れて帰ったと、それをわっしにおっしゃっても御無理でございます。いったい、あなた様はどなたでございます」
 金助は、ようやく少しは落着いて、蒲団を押し退けて、全く見当違いの恨みを自分に述べているその女の人の何者なるやを見ようとしました。
「や、大変、ほんもの……」
 金助は必死になって蒲団《ふとん》にしがみついて、またそれを頭から被《かぶ》って絶叫しました。
 蚊帳《かや》の外に立っているのは、女は女に違いないけれども、女の姿をした鬼であります。臆病な金助にはたしかにそう見えました。怖さ半分と、横着半分とで蒲団を被って応対をしていた金助は、ここに至って全くの恐怖に襲われて歯の根が合いません。
「吉原というのも、お前さん、そりゃ嘘だろう」
 女は、いよいよすさまじい声。
「どう致しまして、嘘ではございません」
「嘘を言うのに違いない、そうしてあの人をどこへか隠したのは、あれは御別家の奥さんという人に頼まれて、お角さんが手引をして、わたしに知れないように隠してしまったのだということを、わたしは前から、ちゃんと知っている。お前さん、どこへあの人を隠したか、それを言って下さい」
「ト、ト、飛んでもないことで。あの人にも、この人にも、わっしが隠すなんて、お隠し申すなんて、そんなことはございません、ございますはずがございません」
「お前さん、もしお金が欲しいならいくらでも上げるから、あの人を隠したところを教えて下さい」
「いいえ、お金がどうしようと言うんではございません……まあ、何が何やら存じませんが、あなた様にお怨まれ申しても、わっしは損でございますから、ようく事のわけを申し上げてしまいます。あの吉原で、わっしは神尾の殿様にお目にかかっただけで、そのお連れの方にはいっこう気がつきませんでしたので。あとで承ればそれはお目が……お目が悪い方だそうで」
「その人、その目の悪い人が、なんで吉原へ行ってみようという気になるものか。それを傍《はた》からみんなして連れ出して……」
「いいえ、吉原へおいでになったのは本当でございます、吉原は万字楼という大きな店でございまして、そこへ、私も丁度お客になって登り合せたんでございます、そうすると遽《にわ》かに吉原の中へ大騒動が起りましたんでございます」
「そんなことはありません、それはお前のこしらえごとです。なるほど、ここの主人は吉原とやらへ行ったかも知れないが、その前に、あの人をどこへか隠してしまったのです、あの人を隠しておいて、ここの主人だけが吉原へ行って遊んだものに違いない。ここの主人はそういうことをする人です、それだから一人で帰って来たのです。一緒になったものが、それに目の不自由な人を連れにして行ったものが、それを忘れて一人で帰るなんぞと、そんなことはありません。それはお前さんが、みんなから頼まれた拵《こしら》え事でわたしを欺すのです」
「どうもおそれいりました、それほどにお疑いあそばすなら論より証拠、これから吉原へ行ってごらん
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