く別の人、すなわち、兵馬が吉原の茶屋からこれまで担いで来た神尾主膳が、地上へ差置かれたところで息を吹き返したために、その唸り声に違いないから、それで兵馬は、ハタと当惑しました。
「うーむ、水を持て、水を」
まさしく神尾主膳の声であります。
「おや、あの声は……」
女はその声を聞咎《ききとが》めないわけにはゆきませんでした。
「あれは怪しいものではない、拙者の連れの者」
兵馬はこう言いわけをしました。
「お連れの方でございましたか」
女もそれだけは安心していると、
「ああ苦しい、水を持て、水を、女中共、誰もおらぬか」
闇の中で、つづけてこう言い出したから、
「おや、あのお声は?」
兵馬は女をさしおいて、
「お静かに、静かにさっしゃい」
地上へ捨て置いた主膳の傍へ寄ると、
「早く水を持てと申すに。女共どこへ行った、拙者はもう帰るぞ」
「ここは吉原ではござらぬ、静かにさっしゃい」
兵馬は主膳を抱き上げて耳に口をつけて、囁《ささや》きました。
「吉原でない? 吉原でなければどこだ、暗いところだな、化物屋敷か、染井の化物屋敷か、ここは」
主膳は、人心地《ひとごこち》がなく物を言っているようであります。
それを聞きつけた女は、[#底本は、改行天付き]
「おやおや、もし、あなた様、そのお方はどなたでござりまする」
女は、立戻って来ました。そうして、兵馬の抱えている人をさしのぞこうとしますから、
「これは拙者の連れの者で、ちと酒の上の悪い男」
「もし、そのお方のお声に、どうやら、わたくしは聞覚えがあるようでございます」
「なんの、そなたたちの知った者ではない」
兵馬は、隠した方がよかろうという心持であったけれど、
「誰が、拙者の断わりなしにこんなところへ連れて来た、こんな暗いところへ誰が連れて来たのじゃ、さあ水を持て、水、誰もおらぬか」
兵馬は隠そうとしても、人心地のない主膳は、うわ[#「うわ」に傍点]言のように声高くこんなことを言い出しました。
女は立っていることができません。
「あの、そのお方のお声は……どうもわたくしは聞いたことのあるようなお声でございますが、もし間違いましたら、御免下さいまし、そのお方はあの、染井の殿様ではございませんか」
「染井……染井の化物屋敷、こんな陰気臭いところへ、誰が連れて帰った……」
主膳は切れ切れにこう言って唸りました。
「おお、そのお方は神尾の殿様」
「この人を神尾主膳殿と知っているそなたは?」
「まあ、神尾の殿様でございましたか、よいところでお目にかかりました。殿様をお迎えのためにわたくしは吉原へ飛んで参るところでございますよ、ここでお目にかかろうとは存じませんでした」
女は喜んで、兵馬の抱いている男を神尾主膳と認めてしまいました。この女というのは、女軽業のお角です。
「いかにも、この方は神尾主膳殿であるが、そういうそなたは?」
兵馬は再び、お角の身の上を尋ねました。
「これは御免下さいまし、つい慌《あわ》ててしまいまして、申し上げるのを忘れてしまいました、わたくしはこの殿様の……この殿様のお屋敷の奉公人でございます」
「ああ左様か、しからばこの神尾殿のお住居を御存じであろうがな」
「エエ、それは申し上げるまでもございませんが、それよりはこの殿様のお連れのお方は……お連れ様はどちらにおいででございましょう」
「ナニ、この神尾殿に連れがあったのか」
「はい、あの……」
お角はここで竜之助の名を言おうとしました。その変名は時によっては吉田といった、時によっては藤原といったりする、その人の名をうっかり言ってしまおうとして、はっと気がつきました。
「神尾殿は一人ではなかったのか」
「はい、あの、お友達で、お目の不自由なお方が一人」
「目の不自由な友達が……」
その時、宇津木兵馬は愕然《がくぜん》として、思い当るところがありました。
「その目の悪い人に逢いたかったのだ、さあ、その人を探しに行きましょう、一緒に吉原へひきかえしましょう」
兵馬がせき込んで、お角は煙《けむ》に捲かれます。
その時に思いがけなく、築墻《ついじ》の蔭から、
「宇津木様、早く行っておいでなさいまし、神尾の殿様のところは、わっしが引受けますから、ずいぶん御心配なく」
こう言ってのそり[#「のそり」に傍点]と出て来たのは、金助の声に違いありません。
「金助ではないか」
「へえ、金助でございます、おいやでもございましょうが、おあとを慕って参りました」
金助は相変らずしゃあしゃあとしたものであります。
「今、わたしにぶつかったのはお前さんかえ」
お角がこう言って咎めると、
「へえ、私でございます、飛んだ粗忽《そこつ》を致して申しわけがございません。実はその時、おわびを申し上げてしまえばよいのでござい
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