ている間の道を通って、時々後ろを振返りながら、前へ急いで行く面《おもて》を見れば、それは宇津木兵馬です。その背に引っかけられているのは神尾主膳に紛れもありません。兵馬はこの辺の道筋をよく知らないけれども、向うに黒く見えるのが上野の森であろうとの見当から、ともかく、あの上野の森をめざして行こうとするつもりであるらしく思われます。
「おや、お前たちは、わたしをどうしようというんだい」
 畑の中で金《かね》を切るような声がしたから、兵馬は足を留めました。
「いいから、そんなに怒らないで、駕籠に乗ってお戻んなさいましよ」
「乗ろうと乗るまいと大きなお世話じゃないか、どいておいで、邪魔をしないで、お通し」
「そんなわからないことをおっしゃるもんじゃあございませんよ、山下の立場《たてば》から吉原まで二百五十のきまりの上に、多分の酒代《さかて》までいただいてあるんでございますから、今更どうのこうのっていうわけじゃございませんよ」
「何でもいいから、お通し、先のことが心配になって、気が気じゃあないんだから、通しておくれ」
「いけませんよ」
「この野郎」
 女の方が腹を立って、ピシャリと男の頬を撲《なぐ》りつけたようであります。
「おやおや、打《ぶ》ちやがったな、女だてらに男を打ちやがったぜ、女の子に抓《つね》られるのは悪くはねえが、こう色気なしに打たれちゃあ勘弁がならねえ」
「泥棒!」
「泥棒だって言やがる、こいつは穏かでねえ、こいつはどうも穏かでねえ」
「あれ――人殺し」
「おやおや、人殺し――なおいけねえ、兄弟、その口をしっかり封じてやってくんねえ」
「あれ――この野郎」
「何を言ってるんだ、ジタバタするだけ野暮《やぼ》じゃねえか」
 たしかに一人の女を、二人の駕籠舁が取って押えて、手込めにし兼ねまじき事態と聞きつけた兵馬は、もう猶予するわけにはゆきませんから、神尾主膳を背中から下ろしてそこへさしおいて、今の金切り声の方へ飛んで行きました。
 ところは鷲神社《おおとりじんじゃ》の鳥居の前、二人の大の駕籠舁が、一人の年増の女を取って押えようとしているところ。
「この馬鹿者めが」
 兵馬は横合から一人を蹴飛ばして、一人を突き倒しました。その勢いに怖れて雲助は、霞の如く逃げてしまいました。
「危ないところをお助け下さいまして、有難う存じまする」
 兵馬のために悪い駕籠屋を追い飛ばしてもらったから、女はそこへ手をついてお礼を言いました。
「これは、どちらへおいでなさる」
「はい、吉原へ用事がありまして、山下から頼んで参りました駕籠が、この始末でございます」
「お送り申して上げたいが、拙者もちと急な用事がある……」
「もう、ついそこでございますから、ひとりで参ります」
「吉原は今、あの通りの騒ぎで、うかと近寄れまいと思われるが、用心しておいでなさい」
「有難うございます、いずれ用事が済み次第、お礼に上ろうと存じますが、あの、お住居《すまい》はどちら様でございましょう」
「ナニ、左様な御心配には及ばない。やあ、また吉原の騒ぎが大きくなったようじゃ」
「何でございましょう、あの騒ぎは」
「歩兵隊が入り込んで、乱暴をはじめたのでござる」
「わたしの知合いの人が、ちょうど、吉原に行っていますものでございますから、気が気ではありません。それではこのままで御免下さいまし」
 女がそのまま駈け出すと、暫くして、
「アッ!」
「危ねえ、気をつけやがれ」
 またしても闇の中でバッタリと突き当ったものがあって、女はよろよろとしました。さては逃げ去ったと見せた悪い駕籠屋共が、まだその辺に潜《ひそ》んでいるのであろうと、兵馬は、
「どうなされました」
「誰か参りました、今わたしに突き当りました」
「今の駕籠屋共であろう」
「いいえ、別の人のようでございました、あちらからバタバタと駈けて来て、わたしに突き当ると直ぐに姿を見えなくしてしまいました」
「誰か、そこにいるのは誰だ」
 兵馬は咎《とが》めてみるけれど、誰も返事をする者がありません。
「隠れているな」
 兵馬は進んで行き、
「怪しい奴だ。しかし心配なさらぬがよい、そこまで送ってお上げ申そう」
 兵馬は女の先に立ちました。その時、
「うーむ」
と人の唸《うな》る声。
「あれ、人の唸っているような声が」
 女は、さすがに気味を悪がって、足を留めました。
「ああ」
 兵馬もその唸り声には、驚かされないわけにゆかなかったようです。
「今の悪い奴でございましょう、それとも、あの駕籠屋が、まだそこいらに倒れているのでございましょうか」
「左様ではない、あれは……」
と兵馬は答えて、当惑しました。今、暗い中で唸り出したのは、さいぜん追い飛ばした駕籠屋でもなく、いま出会頭《であいがしら》にお角に突き当った怪しい者でもなく、それとは全
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