こう言って叫び出すと、例の梯子を小脇に掻《か》い込んで、二階の屋根の上からヒラリと身を躍《おど》らして、その騒動の中心へ飛び下りたものです。
「やいやい、そりゃ、おれの恩のある先生だ、その先生に指でもさすと承知しねえぞ」
人の頭の上をはね越して行った宇治山田の米友が、例の二間梯子を小車のように振り廻して、茶袋を二三名振り飛ばしたから騒ぎがまた湧き上りました。
宇治山田の米友は今やこの梯子一挺を武器に、あらゆる茶袋を向うに廻して大格闘にうつろうとする時、遽《にわ》かに群集の一角が崩《くず》れました。
「酒井様のお見廻りがおいでになった、それ、御巡邏隊《ごじゅんらたい》がおいでになった」
なるほどそこへ現われたのは、当時市中取締りの酒井|左衛門尉《さえもんのじょう》の手に属する巡邏隊の一組です。
それを見ると、茶袋の歩兵隊の中からまたしても鉄砲の音が聞え、楼々《いえいえ》店々《みせみせ》の畳を担《かつ》ぎ出して、それを往来の真中へ積んで楯《たて》を築くの有様でありました。しかしながらこの騒動はやがて静まって、酒井の巡邏隊が万字楼の前を固めた時分には、もう米友の空《くう》に舞わしていた梯子も見えなくなったし、道庵も倒れてはいないし、あんぽつ[#「あんぽつ」に傍点]もどこへか取片づけられていました。
万字楼の前が、人の出入りができるようになった時分に、例のあんぽつ[#「あんぽつ」に傍点]がまた家の中から舁《か》き出されたが、それを担ぎ出したのは、前の酔っぱらいの駕籠舁とは違った屈強な駕籠舁で、その駕籠わきに附いて行くのが宇治山田の米友で、どういうつもりか、例の二間梯子をそのままにして手放すことをしない。
廓内を出たこのあんぽつ[#「あんぽつ」に傍点]は、下谷の長者町の方角を指して行くものらしいから、してみればこの駕籠の中は当然、主人の道庵先生であるべきはずなのに、その当人の道庵先生は、やや正気に立返って、万字楼に踏みとどまっているのであります。
万字楼に踏み留まった道庵は、相変らずそこで飲んでいるかと思えば、決してそんな呑気な沙汰《さた》ではありません。担ぎ込まれた敵味方の療治とその差図で、てんてこ舞をしているのであります。万字楼そのものが野戦病院みたようで、道庵先生は軍医正《ぐんいせい》といったような格でありました。ここに至ると道庵先生の舞台であります。外へ出しては骨無しみたような先生が、この野戦病院の中で縦横無尽に働く有様は、ほとんど別人の観があります。打身《うちみ》は打身のように、切創《きりきず》は切創のように、気絶したものは気絶したもののように、繃帯を巻くべきものには巻かせたり巻いてやったり、膏薬《こうやく》を貼るべきものには貼らせたり貼ってやったり、上下左右に飛び廻って、自身手を下し、或いは人を差図して、車輪に働いているところは、さすがに轡《くつわ》の音を聞いて眼を醒ます侍と同じことに、職務に当っての先生の実力と、技倆と、勉強と、車輪は、転《うた》た尊敬すべきものであると思わせました。
ただあまりに勉強と車輪が過ぎて、火鉢にかけた薬鑵《やかん》の上へ膏薬を貼ってしまったり、ピンピンして働いている男の足を取捉まえて繃帯をしてしまったりすることは、先生としては大目に見なければなりません。
「こう忙がしくっちゃあ、トテもやりきれねえ」
ブツブツ言いながら、先生はついに諸肌脱《もろはだぬ》ぎになって、向う鉢巻をはじめました。その打扮《いでたち》でまた片っぱしから療治や差図にかかって、大汗を流しながら、
「こんなに人をコキ遣《つか》って十八文じゃあ、あんまり安い、五割ぐらい値上げをしろ」
口ではサボタージュみたようなことを言いながら、その働きぶりのめざましさ。
主人の道庵先生は、こんなにして働いているのだから、先に返した駕籠に乗って帰った人が先生でないことは勿論《もちろん》であります。先生でなければ誰。医者か病人に限って乗るべきはずの切棒の駕籠、それに医者が乗って帰らなければ、病人に違いない[#「い」は底本では脱落]。
十三
酒井の市中取締りの巡邏隊に追い崩された茶袋の歩兵は、彼処《かしこ》の路次に突き当り、ここの店の角へ逃げ込んだのを、弥次馬がここぞとばかり追いかけて、寄ってたかって石や拳で滅茶滅茶に叩きつけて殺してしまいました。その屍骸《しがい》があちらこちらに転がっているのは無残なことです。この騒ぎが、漸《ようや》くすさまじくなりはじめた時分、ちょうど宇治山田の米友が、屋根の上から飛び降りた時分のことであります。若い武士が、肩に一人の人を引掛けて刎橋《はねばし》を跳《おど》り越えて、そっと竜泉寺の方へ逃げて行くらしい姿を見ることができました。一方は田圃《たんぼ》、一方は畑になっ
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