いた宇治山田の米友の三人は、今の鉄砲の音を聞いて、すわとばかりに駈けつけて見たけれど、騒動の中心たる万字楼のあたりは、近づくことができません。
 吉原廓《よしわらくるわ》の内外の弥次馬という弥次馬は、数を尽して集まってしまったから、後《おく》れ走《ば》せになった三人は、どうしてもその人垣を破ることができません。
「困ったな」
「もしや宇津木の身から起った変事ではないか」
「どうともわからん、ともかく、この人混みを押破ってみよう」
 浪士は人垣を、無理に破って闖入《ちんにゅう》しようとする時に、
「ワアッ――」
と崩れかかる群集。その勢いは大波を返すようだから、進もうとしてかえって押し返されるほかはないのであります。
「困った、なんとかして近づいて、様子を見たいものだ」
「よい工夫はないかな」
 二人の浪士は、事を好んでこの騒動を見たいのみでなく、騒動の中に何か自分に利害関係のある人がいて、その身の上が心配でたまらないらしくあります。
 この時に宇治山田の米友は、路次の軒の下へ蹲《うずくま》って、梯子《はしご》を組立ててしまいました。
 いつのまにか組立てた梯子を、軒へ立てかけた米友は、
「お武家さん、ひとつこの屋根へ登って、見物しようじゃねえか」
「こりゃ梯子、時に取っての見付物《めつけもの》だ」
 この場合において恰好《かっこう》な見付物であり、機敏な思いつきでもあると感心し、二人の浪士はお辞儀なしに、梯子を登り出し、垂木《たるき》のあたりへ手をかけて、上手に屋根の上へはね上りました。
 二人を先に登らせておいて米友は、二人よりはいっそう身軽に屋根の上へはね上ってしまい、梯子に結んでおいた縄を引くと、梯子は刎橋《はねばし》のようにはね上ります。廂《ひさし》の屋根から三階の屋根へもう一度、梯子をかけて三人は、またあいつづいて二階の屋根へ飛び上りました。
「ははあ、万字楼の前に集《たか》っている、あれが歩兵隊の者共だな」
「恥を知らぬ奴等じゃ、こんなところへ来て、騒がしてみたところで何の功名になる」
「もとよりあれは、歩兵隊とはいうけれど、市井《しせい》の無頼漢、幕府も人を集めるに困難してあんなのを集めて、西洋式の兵隊をこしらえようというのだから窮したものじゃ」
「さいぜん、鉄砲の音がしたようだけれど、あの連中、鉄砲を持って来たものと見えるな」
「吉原の廓内で鉄砲を打放《ぶっぱな》すというのは、おそらく前代未聞だろう」
「それにしても宇津木はいったい、どこの何という店にいるのじゃ」
「それがわからないから困ったのよ、あの娘たちに頼まれてここまで出向いて来たけれど、娘たちはただ吉原とばかりで、吉原の何町の何という家へ行ったのだか一向知らん、吉原とさえ言えばそれでわかるように思うているところが、娘たちの身上だ」
「もし宇津木の身に間違いでもあられては、せっかく頼まれて来た我々が娘たちに対して面目がない」
「そうかといってこの場合、迷子《まいご》の迷子の宇津木兵馬やあいと、呼ばわって歩くわけにもゆかない」
「困ったものじゃ」
 二人の浪士は下の光景を見ながら、しきりに困惑しているようであります。
 この二人の浪士は、さきに宇津木兵馬と共に甲府の牢を破って出た南条と五十嵐とであります。
 この時、下界のこの混乱の中へ、どこをどうして紛《まぎ》れ込んだか一挺の駕籠《かご》がかつぎ込まれたのは、奇観ともなんとも言いようがありません。さてはいかなる勇士侠客が仲裁に来たのかと、さしもの群集が暫く鳴りを静めて見つめているうちに、
「ナーンだ、お医者さんか」
と呆《あき》れ返ったのは、それが普通の駕籠ではなく、切棒の駕籠であったからです。本来、吉原へは医者のほかは、乗物では入れないことになっています。
「おい、道庵がやって来たぞ、万字楼に病人を一人取残しておいたから、先生、ぜひひとつ行って助けて来ておくんなさいと頼まれたから、道庵が出向いて来たんだ、ばかにするない」
 切棒の駕籠、すなわちあんぽつ[#「あんぽつ」に傍点]の中で、しきりに怒鳴っているのが道庵先生です。
 酔っぱらっているとは言いながら先生、飛んでもない所へ出て来たものだと見物の中にはハラハラする者が多かったけれど、先生自身も酔っているし、駕籠舁《かごかき》にもしたたか飲ませているものだから、見ていられない恰好をしてこの騒ぎの中へ、よたよたと舁《かつ》ぎ込んだものです。
 それが忽《たちま》ち茶袋にとっつかまったのはあたりまえです。取捉まって引き出されるまで道庵は気焔《きえん》を揚げていましたけれど、茶袋は取り上げる限りではない。引き出して、天水桶の水をぶっかけて、弄《なぶ》り殺《ごろ》しにも仕兼ねまじきところを、屋根の上にながめていた宇治山田の米友が、
「あっ、ありゃ長者町の先生だ」
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