って、相生町四丁目の河岸地へ来た時分には、不幸にしてまたも竜之助の姿を見失ってしまいました。
「チェッ」
米友は舌打ちをして忌々《いまいま》しがりました。さてどっちへ行ってみたらよかろう。たしかに橋を渡って真直ぐには行かないだろうと思う理由があります。それは、つい目の先に鈴木の辻番があって、それを通り越してもまたじきに関播磨守《せきはりまのかみ》の辻番に突き当ります。だから、夜分なんの用事かこうして出歩く人が、ことさらに関所の多いところをえらんで通るはずはなかろうと思ったからであります。
それで米友は、左手の相生町の角を真直ぐに行きました。気のせいか、今夜の辻番はいつもと変って、なんとなく穏かでないらしく、相生町四丁目の向う角にある本多の辻番などは、何か声高《こわだか》に番人の話が聞えます。それでもまあ無事に辻番の眼を潜って、相生町の三丁目から二丁目へかかったけれど、いずれへ向いても人らしいものの影を見ることはできません。
「チェッ」
二丁目の河岸《かし》を通りかかると、そこに一軒の大きな構えの家の表だけがあいていました。そして、その前に提灯を持った人が二三人出入りをしているので、米友は立ちどまって、はっと気がつきました。この家は箱惣の家であります。前に自分が留守をしていたことのある家、そこで浪人を追い払ったことのある家、またこの間はそこの井戸で、子供を水中から救い出したことの覚えのあるその家だけが物穏《ものおだや》かでないから、米友はギックリと立ちどまって、暫く様子を見なければなりません。
その家の前に提灯をさげて、二三の人を差図をしているらしいのは、まだ若い女でありました。
「お秋さん、お前は台所町の方へ廻って下さい、お前さんと栄助さんがあちらから廻って、辻番でいちいちお聞き申してみて下さい、そうしてやはり両国橋へ出て、こちらの組と落合うようにして下さい。わたしはどうしても両国を渡ったものとしか思われない、でも途中で辻番に留められているかも知れないから、よく聞いて下さい」
この差図をしている若い女の人の声、それが、まさに聞いたことのある人の声でしたから、
「おいおい、お前はお松さんじゃねえか」
「おや、どなた」
女は振返って、
「まあ、お前は米友さんじゃないか」
「うむ、俺《おい》らだ」
「どうしてこの夜更けに、お前さん、こんなところへ……それでもよ
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