ねえことがあるんだ」
「合点のゆかないこと、なにもこれほど世話になっているお前に、迷惑をかけるようなことをした覚えはないつもりだが」
「別に俺らも、お前から迷惑をかけられたとも思わねえが、今朝起きて見て、どうもちっとばかりおかしいことがあるんだ」
「そのおかしいこととは?」
「それだ、お前は、俺らに断わりなしで、ゆんべ夜中にどこへか出かけやしねえか」
「そんなことはない」
「無え? 無えとするとどうも変だぜ。まあいいや、なけりゃねえでいいけれど、お前、何事があってもまだ当分、外へ出ちゃならねえことは知ってるだろう」
「そりゃ承知している」
「お前が外へ出て悪いのみならずだ、俺らも当分は外へ出られねえことも知ってるだろうな」
「それも知っている」
「二人を、そっとここの長屋へ隠してくれた鐘撞堂《かねつきどう》の親方の親切のことも、お前にゃわかってるだろうな」
「それもわかっている」
「何だか委《くわ》しいことは知らねえが、そうして眼が潰《つぶ》れて、その上に身体が弱くて悩んでいるお前の命を、取りてえと覘《ねら》っている奴があるそうだから、俺《おい》らは癪に触って、それでお前のために力になってやりてえと思っているんだ。眼が見えなくなって身体の悪い人間を苛《いじ》めようてのは、これより上の卑怯な仕業《しわざ》はねえから、それで俺らは、できねえながらも、お前のために力になってやりてえと思うんだ。そうは思うんだけれども、その力になってやりてえ俺らも同じように、当分明るくは外へ出られねえんだ。なんでもこの間、浅草の広小路で撲《なぐ》ってやった侍の組だの、吉原で喧嘩をした茶袋だのというのが俺らのすじょうを知って、俺らを取捉《とっつか》めようとして探してるんだそうだ、だから当分、ほとぼりの冷めるまでは、お前と一緒に隠れているがいいというから、それで隠れてるんだ、そのうちに、ほとぼりが冷めたらお前を連れて、お前の行きてえと言うところへ連れて行ってやりてえと、こう思ってるんだ。だからお前、そのほとぼりが冷めるまでは、おたがいに窮屈でも、じっとこうして隠れていなくちゃならねえ。何か用があるんなら、夜になって俺らが、そっと出かけて上手に用をたして来てやるから、遠慮なく言っておくんなせえよ、俺らに気の毒だなんぞと、よけいな気兼ねをして、拙《へた》なことをやってくれると、おたがいの為めにならね
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