歩きぶりであります。手を伸ばせば、羽掻《はがい》じめになりそうな逃げぶりでありましたから老人は、
「奴め、怪我をしているな」
といちずにそう思ってしまいました。だから勇気はいよいよ増して一息に追いかけた時に、辻斬の狼藉者は、ふいと角を曲って榛の木馬場の稲荷の社《やしろ》の中へ逃げ込んだものと認められます。
「逃げようとて逃がさんぞ」
 稲荷の前に並んでいた榛の木の間から狙《ねら》って槍をエイと一声、突き込んだけれども槍は流れました。手許へ繰り込んで、二度突き出した時に、榛の木の蔭にいた辻斬の狼藉者は、ふらふらと二足ばかり前へ出ました。
 二度突き損じたと思った老人は、二三歩とびさがりました。そこへ全身を現わした覆面の辻斬の狼藉者は、刀を抜いて腰のところへあてがって、腰から上を屈《かが》めてこっちを見ています。
 三度、突きかけようとした遠藤老人は、どうしたものか、突くことができません。ハッハッと息が切れ出しました。槍がワナワナと顫《ふる》え出しました。突くことができないのみならず、引くこともできないらしくあります。
「エイ!」
 覆面の辻斬の狼藉者の一声が、氷の上を走るように聞えました。それと同時に血煙が立って、かわいそうに遠藤老人は、槍を投げ出して二つになってそこへのめりました。

         十七

 その翌日、弥勒寺橋《みろくじばし》の長屋の中で、
「さあ、お飯《まんま》が出来たよ」
と二枚折りの屏風《びょうぶ》の中を見込んだのは、宇治山田の米友であります。
「どれ、起きようかな」
 屏風の中で、蒲団から半身を起したのは机竜之助であります。以前よりはまた痩《や》せて、色は一層の蒼白《あおじろ》さを加えているもののようです。
「どうもよく寝られるじゃねえか、俺《おい》らなぞは、宵《よい》のうちは早く寝て朝は早く起きてえんだが、お前は宵に寝て朝もまた寝て……もっともお前には、夜の明けるということはねえんだろうな」
と言って米友は苦笑《にがわら》いしました。
「友吉どの、いろいろとお世話になって済まんな」
 竜之助は、まだ全く起き上りはしません。

「お世話になるのならねえの、そんなことはどうでもいいが、俺《おい》らはちっとばかりお前に聞きてえことがあるんだ」
「何を……」
「何をじゃねえんだ、こうして見ていると俺らには、どうもお前の仕方に合点《がてん》のゆか
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