え、拙者を臆病と知りながら、こんなところへ送り込んで、生きながら化物の餌食《えじき》とするなんぞは。いっそ、殿様をお起し申そうか。お起し申したって、死んだも同じように寝癖の悪い殿様だ、なんにもなりゃしねえ。おやおや、いよいよこっちへやって来るぜ、下駄の音がだんだん近くなるぜ、あれ、もう飛石の上のあたりを歩いているんだ。弱ったなあ、とてもこうしちゃいられねえ、何か得物《えもの》はねえかな。得物があってみたところで、おれの腕じゃあ納まりがつかねえ、殿様のお寝間の中へ潜り込んでしまおうか。さあ大変、雨戸へ手をかけたぞ。雨戸には錠《じょう》が下ろしてあるんだろうな、お角さん忘れて錠を下ろさずに行くなんて、そんな抜かりのある女ではなかろうはずだが……化物のことだから、戸の隙間から入って来て、金助さんお怨《うら》めしいなんぞは有難くねえな。おやおや、あけた、あけた、なんの苦もなく雨戸をサラリとあけたぜ。さあ、いよいよ堪らねえ。あれあれ、廊下がミシリミシリ言うぜ、やって来た、やって来た、おいでなすった」
 金助は驚き怖れて、蒲団《ふとん》を頭からスッポリ被《かぶ》って息を凝《こ》らしていました。これは金助の疑心暗鬼ではなく、たしかに庭を歩いて、雨戸をあけて、廊下を歩いて、金助がいま蒲団を被っている部屋の障子の前に立った者があるに相違ないのです。
「お角さん、もうお帰りなさったの」
 障子をあけて、蚊帳の外に立ってこう言ったのは女の声であります。金助は黙っていました、蒲団を頭から被ってガタガタと慄えていました。しかし、燈火《あかり》はカンカンとかがやいていることであるし、喫《の》みかけた煙管《きせる》はそこに抛《ほう》り出してあるのであるし、その煙草の吸殻の煙ものんのんと立ちのぼっているのであるから、外から見ても、内から見ても、人がいないとは言い抜けられない有様であります。
「お角さんはどうしました」
 蚊帳の外の女は再びこんなことを言いました。金助はそれでも返事をしなかったけれど、女は容易に立去ろうともしないで、
「そこに寝《やす》んでいるのはどなた」
「へえへえ、うーむ」
 金助もついに堪《こら》え兼ねて、慄え声で、いま目が覚めたような作り声をして、
「どなた」
 同じようなことを言い、蒲団の隙間からそっと目だけ出して蚊帳の外を見ました。立っているのは寝衣姿《ねまきすがた》の女
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