ましたが、これには仔細がありそうでございますので、物蔭へ忍んで御様子を窺《うかが》いましてございます」
十四
お角に代って染井の化物屋敷へ、神尾主膳を送り込んでその一間へ休ませた後、金助は次の間へ入って煙草をふかしています。
「なるほど、こいつは化物屋敷だ、これだけの構えに、主人のほかには人っ気が無えというのが全く人間放れがしている、何だかこうしているとゾクゾクして淋しくてたまらねえ、身の毛がよだつようだ。おやおや、この浴衣《ゆかた》、吉原田圃で転んだ拍子に、こんなに泥だらけになっていたのを今まで気がつかなかったのはおそれ入る、気がついてみればこんなものは、一刻も身につけてはいられねえ。はてな、きがえはねえかな、こんな場合だからお殿様のお召物であろうとも、お部屋様のお召替であろうとも、何でも構わねえ、手当り次第に御免を蒙《こうむ》って……」
金助はあたりを見廻すと、衣桁《いこう》に鳴海絞《なるみしぼり》の浴衣があったから、それを取って引っかけて、なおも煙草をふかしている耳許でブーンと蚊が唸ります。
「おやおや、蚊が出やがった、おお痒《かゆ》い、痒い、こいつはたまらねえ」
いつのまにか蚊に手の甲を、したたかに食われていました。その手を掻いてから、ピシリと顔を打って蚊をハタキ落し、
「世の中に蚊ほどうるさきものはなし、文武と言いて夜も眠られず、さすがに寝惚《ねぼけ》先生、うまいところを言ったな。どこかにまだ蚊帳《かや》があるだろう」
金助は立って戸棚をあけると、そこに蒲団《ふとん》もあれば、立派な蚊帳も入れてありました。その蒲団を展《の》べて蚊帳をつり、その中へ煙草盆を引き寄せて、ふんぞり返った金助は、
「だが、陰々と湿っぽい家だな、燈心をもう少し掻き立てて明るくしてやろう。殿様は、よくお休みのようだ、お命に仔細はあるまい、なるほど、すやすやと寝息が聞えるから、まず安心。おや、何か音がしたぜ、風が出たんじゃあるめえな」
耳をすますと、下駄を穿《は》いて歩んで来るらしい人の足音。
「冗談じゃねえ、人の足音だぜ、しかも暢気《のんき》に庭の中を、カラコロと引摺って歩いて来るのは只者じゃあねえぜ。あのお角とやらいう女の言葉では、誰もいねえ留守の屋敷だと言ったが、誰かいるじゃねえか。こいつは堪らねえ、化物屋敷の化物がおいでなすったんだぜ。人が悪いね
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