した。
「おお、そのお方は神尾の殿様」
「この人を神尾主膳殿と知っているそなたは?」
「まあ、神尾の殿様でございましたか、よいところでお目にかかりました。殿様をお迎えのためにわたくしは吉原へ飛んで参るところでございますよ、ここでお目にかかろうとは存じませんでした」
女は喜んで、兵馬の抱いている男を神尾主膳と認めてしまいました。この女というのは、女軽業のお角です。
「いかにも、この方は神尾主膳殿であるが、そういうそなたは?」
兵馬は再び、お角の身の上を尋ねました。
「これは御免下さいまし、つい慌《あわ》ててしまいまして、申し上げるのを忘れてしまいました、わたくしはこの殿様の……この殿様のお屋敷の奉公人でございます」
「ああ左様か、しからばこの神尾殿のお住居を御存じであろうがな」
「エエ、それは申し上げるまでもございませんが、それよりはこの殿様のお連れのお方は……お連れ様はどちらにおいででございましょう」
「ナニ、この神尾殿に連れがあったのか」
「はい、あの……」
お角はここで竜之助の名を言おうとしました。その変名は時によっては吉田といった、時によっては藤原といったりする、その人の名をうっかり言ってしまおうとして、はっと気がつきました。
「神尾殿は一人ではなかったのか」
「はい、あの、お友達で、お目の不自由なお方が一人」
「目の不自由な友達が……」
その時、宇津木兵馬は愕然《がくぜん》として、思い当るところがありました。
「その目の悪い人に逢いたかったのだ、さあ、その人を探しに行きましょう、一緒に吉原へひきかえしましょう」
兵馬がせき込んで、お角は煙《けむ》に捲かれます。
その時に思いがけなく、築墻《ついじ》の蔭から、
「宇津木様、早く行っておいでなさいまし、神尾の殿様のところは、わっしが引受けますから、ずいぶん御心配なく」
こう言ってのそり[#「のそり」に傍点]と出て来たのは、金助の声に違いありません。
「金助ではないか」
「へえ、金助でございます、おいやでもございましょうが、おあとを慕って参りました」
金助は相変らずしゃあしゃあとしたものであります。
「今、わたしにぶつかったのはお前さんかえ」
お角がこう言って咎めると、
「へえ、私でございます、飛んだ粗忽《そこつ》を致して申しわけがございません。実はその時、おわびを申し上げてしまえばよいのでござい
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