多いそうじゃ」
「どうも困ります、あの歩兵さんたちは弱い者いじめで困ります、わたくしどもの方や、芝居町の者は、みんな弱らされてしまいます」
 兵馬は往来に面するところの障子を開いて見下ろすと、なるほど、かなり酔っているらしい一隊の茶袋が、この万字楼の店前《みせさき》に群がっている様子であります。様子を聞いていると、どうやらこの楼《うち》へ直接談判《じかだんぱん》をして、この一隊が登楼しようとする。店ではなんとか言葉を設けて、それを謝絶しようとしているものらしく聞えます。
「我々共を何と心得る、神田三崎町、土屋殿の邸に陣を置く歩兵隊じゃ、ほかに客があるなら断わってしまえ、部屋が無ければ行燈部屋でも苦しくない」
「どう致しまして」
 茶袋は執念《しゅうね》く談じつける。店の者はそれを謝絶《ことわ》るに困《こう》じているらしくあります。

         十一

 宇治山田の米友が吉原へ入り込んだのは、ちょうどこの時分のことであります。
 米友は頬冠《ほおかぶ》りをして、例の梯子くずしを背中に背負《しょ》って、跛足《びっこ》を引き引き大門《おおもん》を潜りました。土手の茶屋で腹はこしらえて来ているし、懐ろには、さきほど浅草広小路で集めた銭が充分に入れてあるから、さのみ貧しいというわけではありません。
 米友が吉原の大門を潜ったのは、申すまでもなく今宵が初めてであります。その見るもの聞くものが、異様な刺戟を与え、その刺戟がまたいちいち米友流の驚異となり、咏歎《えいたん》となり、憤慨となるのは、また申すまでもないことであります。米友が眼を円くして進んで行くと、ふと自分の前を、尖《とが》った編笠を被《かぶ》って肩に手拭をかけて、襟に小提灯をつるした三人一組の読売りが通ります。
「エエ、これはこのたび、世にも珍らしき京都は三条小橋縄手《さんじょうこばしなわて》池田屋の騒動」
「おや、池田屋騒動って何でしょう」
「稲荷町に池田屋という呉服屋さんがあってよ」
「呉服屋さん? その呉服屋さんがどうしたの」
「どうしたんですか、縄付になったんでしょう」
「縛られてしまったの」
「そうでしょう、縄で縛られたと言っているじゃありませんか」
「エエ、これはこのたび、世にも珍らしい京都は三条小橋縄手の池田屋騒動……」
「稲荷町の呉服屋さんじゃありませんよ、京都三条と言ってるじゃありませんか」

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